『ブリキの太鼓1~3』 ギュンター・グラス

 

 「ぼく」ことオスカルは「きちがい病院」のベッドの上にいる。
ぼくは、玩具の太鼓をたたく。
この物語は、オスカルが太鼓を叩きながら語った(太鼓に語らせた)彼の半生の物語だ。


オスカルは、ある事故がきっかけで三歳で身体の成長が止まった(止めた)
玩具として与えられたブリキの太鼓は彼の体の一部のようで、日がな一日叩き続けた。
オスカルは、成長し、外側は三歳の姿、内側は大人の心をもった「小人」になる。
この姿は、自らすすんで社会からはみだして生きることを選んだことのあらわれのように思う。よそ者の気楽さで世の中を眺め、深刻な場面にさえも、ときどき遊びでちょっかいを出そうとしている。


ナチスの台頭から戦争へ。そして、敗戦へ。
ときには、オスカルの行動がレジスタンスに見えないこともないけれど、とんでもない。政治や戦争への関心はひとかけらもない。虐げられ苦しむ人びとへの同情もない。彼は気楽なよそ者だから。


それでも、彼は愛されたし、愛した。
その愛にはグロテスク、猥雑、という言葉が似合う。読んでいて気持ちの良いものではない。


オスカルを無心に愛した人々は次々に死ぬ。結果として彼らを死に引き渡したのはオスカル。ただ欲望のままに行動しただけだったけれど。
どの場合にも、自分だけは安全な場所にいるオスカルは悪魔にも見えるが……


オスカルは、一見、キリスト教を軽蔑しているようにみえる。
自分のことを一時、イエスの後継者と名乗っていたことを思い出す。
もしかしたらキリストを、自分の同類、社会のハミダシ者、よそ者と思っていたのだろうか。
あるいは、これが、彼なりの信仰心の顕れで、彼なりの敬虔さだったかもしれない。ねじれてはいるけれど。


社会の動きに無関心なオスカルの目を通して、当時のドイツに暮らす人々の群像が暗がりに浮かび上がる。
特に、印象的なのは、ごく普通に暮らす人たちが抱いている暗い狂気のようなものを嗅ぎだすオスカルの鼻のよさだ。隠しておくべきものが明るいところに引きずり出される。
その間を縫ってオスカルは躍る。この鬼子はいったいどこから生まれてきたのだろう。