『トラウマ・プレート』 アダム・ジョンソン

 

九つの中・短編が収録されている。どれも、近未来の物語だろうか、それともパラレルワールドのどこかの物語だろうか。わたしたちが暮らす世界によく似ているけれど、へんてこで残虐な気配が満ちていて、でもそこで暮らす人々にとってはそれが当たり前の世界なのだ。


たとえば、『ティーン・スナイパー』の、たてこもり犯人を囲んだ警察のスナイパーたちは、全員ティーンエイジャーだ。犯人を撃ったのは15歳の少年である。上官の警部補は、少年たちが(撃ち殺すべき)犯人に感情移入しすぎないようにカウンセリングしている。
『みんなの裏庭』の語り手の男は動物園の夜間警備員だが、ほぼ毎晩、動物たちを銃殺するのが仕事の一部だ。
『大酒飲みのベルリン』では、「オクラホマでは何をして楽しむんだね」との質問に、16歳の少年はにこりともしないで「テロ活動ですよ」と答えたりする。
そんな世界で、当たり前に暮らしている登場人物の物語を読んでいると、読んでいる私の世界のほうがおかしいのではないか、と思ってしまうほどに狂った世界だ。


十代の若者が出てくる物語が多かったが、どの物語の若者も、私には何を考えているのかわからなくて、彼らが不気味だと思う。この気持ちは『みんなの裏庭』の、あの父親に似ている。「俺はこいつを、自分の息子を失っちまったということだ」という。
だけど「それでも、俺は息子を取り戻せると思っている」という言葉と、ただ「息子をとりもどす方法がわからない」という言葉には、そうなのだろうか、と思う。子どもが大人に反発したり反抗しているのなら、(おとなにとって)救いはあるだろうけれど。
子どもたちの不気味さは、おかしな世界で、おかしいことなんか何もないような顔をして生き延びようとする人びとに対する侮蔑、それから絶望のように思える。


『トラウマ・プレート』というのは防弾チョッキのことだ。この本を読んでいると読書にも防弾チョッキが必要な気がしてくる。そう思いながら、ほんとうはもうちょっと気がついている。そんなものはまったく役に立たないこと。
ほんとうは、物語の中の世界と同じくらい、私の住むこの世界も奇妙だ。ここでも防弾チョッキなんか役に立たないだろう。