『星を撒いた街』 上林暁

 

七つの私小説が収められている。
胡散臭いような、ハミダシ者と言われそうな人たちが多く登場するが、彼らが、身の内に思いがけない魅力を隠していることは、知る人ぞ知る。
しょぼくれた景色に垣間見える明るさ、おかしみの欠片。
一見地味な場面が、読む人にとって、かけがえのない場面になっていく感じが好きだ。


ことに好きなのは『花の精』。
苗から大事に育てた月見草、そろそろ花が咲くころと楽しみにしていたのに、ちょっと目を離したすきに庭師に、雑草として切って捨てられてしまったことが悔やまれてならない。
「私」の妻は、長く鍵と鉄格子のある病院に入院している。「私」にとって月見草は、妻そのものだ。
夜開く黄色い花が、さまざまな光景のなかで、作者の思いをのせて、次々に、全く別の顔、別の姿になって浮かび上がる。
妻を最後に見舞った日のわびしげな姿がずっとちらつくが、無残に倒された月見草は、「私」の庭にしっかり根付く野生の月見草へと受け継がれる、逞しく。


『病める魂』『晩春日記』は、病気の妻を抱えた家族のその後の物語。厳しい世相からすっぽりとそこだけ切り離されたような、病室の浮遊感異次元感。
病気とともに視力まで失った妻を抱えての前途を憂う生活の内で、妻と娘とがかき鳴らすギターのしらべが染み入ってくる。


『和日庵』の鳴海要吉は時代離れの風態で陋巷にくすぶっている人に見える。のであるが、品格に富み、洒落ている。その頭の引き出しの中には、どんな宝物がしまわれているか。


『風詠詩人』の詩人・高台鏡一郎は、乞食のようなぼろぼろの身なり。奇言奇行も目立つ人だったが、「私」のフィルターにかかると、奇行の向こうに、彼だけが知る、遥かな高みへの一途な憧れがあったことに気づかされる。あと小さきものへの愛情と。心に残るのは神社の境内でこどもたちと遊ぶ姿。こどもらに囲まれて童話かなにかを語っているようだったと。


『星を撒いた町』では、嘗て秀才と誉れ高かった同窓生を久々に訪ねる青年の話。
訪ねた側が居心地悪くなる程の貧乏暮らしだが、旧友の自慢は、夜の窓外の光景。この家は高台にあり、目の下には、空の星をそのまま撒いたような灯の点綴する美しい街が広がっている。その町は、昼間みれば「東京で指折りの貧民街」なのだが。ほのかな明るさと温かさが胸に灯る。