『ベル・ジャー』 シルヴィア・プラス

 

作者シルヴィア・プラスは、1932年生まれ。十七歳にしてすでに短編小説や詩で数々の賞を受賞。名門女子大学スミス・カレッジに在学中、『マドモアゼル』誌のゲスト・エディターに選ばれてニューヨークに一カ月間招待される。けれども帰宅後、自殺未遂で、精神病院で療養することになる……


作者のプロフィールの前半を書きだしてみたのは、作者の青春時代(?)が、この物語の主人公エスターのそれと、すっかり重なるからだ。これは、私小説か自伝的小説というべきものだろうか。


努力家で学校の成績は断トツ、文学の才能も早くから認められていた田舎の少女は、ニューヨークという煌びやかな都会で途方に暮れ、自分は何ものでもないように思えてくる。何ものになりたいのかもわからなくなってしまう。


恋人を始めとした男たちの男性優位発言や行為は、発言者本人にその気がないだけにたちが悪い。
エスターは、深く傷つき、一種の逆襲を試みるが、そのこと自体、自分のなかにもある男性優位の考えを認めることになっていたのではないか。次第に自分で自分の首を絞めていったように思う。


タイトルにもなっているベル・ジャーは「主に研究室で、真空実験やガスの貯留などに使われる釣り鐘形のガラスの覆いのことである」(訳者あとがきの中の言葉)
物語のなかでエスターは独白する。自分の上におりてきたのは「すべてのものを歪んで見せるあの息苦しいベル・ジャー」であると。
エスター自身を語り手にした、この物語自体が、ときどきベル・ジャーそのものみたいに思えた。読み手の上に覆いかぶさってくる。
その一方で、物語のなかで、語り手としてエスターが、「ベル・ジャー」という言葉を使うようになったということは、自分を客観的にみているということでもあり、彼女は、もう、外にいるのだ、と感じた。

 

読み終えて、ベル・ジャーの外に生還したエスターの前には、何の覆いもない人生が広がる。あのときに、死ななくてよかった。ほんとうによかった。
そう思うそばから、作者の最期が、壮絶な自死であったという事実(作者のプロフィールによる)に、たまらない気持ちになってしまう。二度目のベル・ジャーの覆いを除けることは出来なかったのか、と。
作者の死後、この物語が世界中で読まれていることを思いながら、物語の中のエスターは、作者から独り立ちして、いまも歩いているのだと信じている。
物語の最後の言葉「……足を踏み入れた」が続いていきますように。