『部活で俳句』 今井聖

 

第一章、著者が顧問を努めるつぶれかけの俳句同好会は、ヒップホップを踊りたい数人の生徒が便乗して加わり(?)「踊る俳句同好会」に生まれ変わる。
ダンスをするはずだった。俳句を作ろうなんて気はなかった。国語いや、勉強自体が苦手な生徒たちを、著者は俳句に導く。
「人に言ったら楽になることはないか。自分が何を考えているのか整理したくなることはないか」というアドヴァイスのもとに、生徒たちのひとりが、自分の気持ちを詠んだ句のひとつがこれである。
「父憎む桜の夜の炊飯器」
わたしは素人だけど、これが初心者の句って、すごくないですか?


第二章からは、全国の高校生たちの俳句と、それに対する著者の寸評(?)を読んでいく。
部活、家庭、塾、受験、バイトなどの一場面から、怒りや悲しみ、自己嫌悪などが、あるいは達成感や、社会意識、自己主張、恋心などが覗く。


子規によって広まった、俳句の「写生」という方法は「見えたものを見えたまま提示する」こと。「そこに作者の驚きや感動がいかなる情緒であれ、見えればいい」という。
写生、と言っても、まず嫌われるのは通俗性だ。演出過剰、嘘くさいなど。
あまりに整い過ぎた風景を写生するのはつまらない、ということだろうか。
「毎日瞬時瞬時に展開する何万のカットの中のあるひとつを、僕らは「気づいて」拾い上げることができるか」とも言っている。


ここにとりあげられた句のほとんどは、高校生の俳句の大きな大会「俳句甲子園」「神奈川大学全国高校生俳句大賞」の受賞作である。
著者は、これらの句の作者に共通するのは「受験偏差値の高い、一流大学進学率を誇る高校の生徒であること」だという。
「高校生らしい句」には(採点者の目を意識して)計算された、ほどほどの「覇気」と「野卑さ」、程よい「絶望」と「懐疑」が詠みこまれる。
こんな技も計算も、踊る俳句同好会の生徒には到底無理だ。
進路指導のための小論文講座では、まず字数の八割までを文字で埋めるように指導するのが精いっぱいの生徒たちなのだ。
高校卒業後に待ち受ける社会の待遇格差や昇進格差をすでに承知して諦めている生徒たちだ。一流大学を目指す高校生たちが俳句に詠みこむ程良い「絶望」とは、まったく別種の絶望を生きている生徒たちだ。
社会や政治のいびつさを憤ってもこの生徒たちがすぐにどうにかなるものでもない今である。
そういう生徒が作る句が、そのまま俳句甲子園常連たちの句に太刀打ちできるはずがない。
けれども、著者はここで、優れた「文学」に到達する「権利」の持ち主について語る。


教師である著者と踊る俳句同好会の生徒たちが、まるで小説の主人公たちのようで、小説を読むような面白さにわくわくした。この先、この同好会がどういう道すじを辿ったのか知りたくなる。
(巻末の著者の略歴のなかに、ちらっと書かれている記録は、たぶんこの続き!)


そして。
「僕らは本意だの古典だのの感動に気遣うことなく、自分個人の体験を堂々とわがままに詠えばいいのです」という言葉に、励まされている。俳句を詠む者だろうと詠まない者だろうと。