『鳥が教えてくれた空』 三宮麻由子

 

三宮麻由子さんの『センス・オブ・何だあ?』を読んで、もっともっと話を聞きたくて、このエッセイ集を手に取った。


著者・三宮麻由子さんは、四歳で失明している。だけど、読んでいるとそれを忘れる。
目が見えているはずの私以上によく見えているような、少なくとも(見える人と)同じものを同じように見ながら話しているような錯覚に陥る。


著者は、鳥の声を聞くのが好きだ。スズメに始まって、今では探鳥会などに参加して、二百種の鳥の声を聴き分けるという。
著者に、空の広がりや高さ、そして、何よりも光を教えてくれたのは、この鳥たちなのだ。
時間によって、お天気によって、それから季節によっても、鳥の声は変わっていく。
赤城山で、朝、まだ暗い時間から鳴き始めるサンコウチョウの声に、ひとり向き合っていた時の話。
「この日私は、生まれてはじめて夜明けを自分の感覚で味わった」という言葉は、印象的だった。著者の文章を味わいながら、目で光を感じられるはずの私が、耳を通して、全身が光に包まれていく感覚を味わっている。一度も聞いたことのないサンコウチョウの声が聞こえてくる。


目が見えない、ということは、
「ひと言で言うと、私は「空間」ではなく「ポワン(点)」で生きていた」
ということだ。
点をいかにして空間に広げるか、ということが、生活の始まりなのだろう。目以外の感覚を使い馴らしながら、徐々に点が膨らんでいくような感覚を、著者の文章から、私は少しは疑似体験できているだろうか。


自然観察指導員の養成講座の折、視力以外の感覚を使おうという趣旨の目隠しトレイルというネーチャーゲームに参加したそうだ。
いきなり目隠しされた晴眼者たちは、樹木などを触ってみても、ほとんど感覚をつかめなかったし、自分がどんな地点にいるかさえも判断できなくなっていたそうだ。
こういうことは、訓練しないとできない。目が見えないということはそういう訓練を日常的にしてきているのだそうだ。
そういう意味で、「群盲象を撫ず」という諺は正しくないと著者はいう。知りもしないくせにそういうものかな、と思っていた者としては、とても恥ずかしい指摘だった。


子どもの頃の遊び仲間たちのことや、中学三年生で留学したユタ州のことや、ピアノ、季節や土地の匂いのこと、そして俳句。などなど、興味深い話題はつぎからつぎに。
どの話題も、わたしは、初めての感覚が開かれていくような気持ちで読んだ。


最初に、わたしは、著者が目が見えないことを忘れた、と書いた。
でも、そうじゃなかった。
目だけで見たのでは到底見えない、五感を使って見る、はるかに豊かな世界がある事を知らされた。著者が見ているのは、そういうものだった。