『人形の家』 ルーマー・ゴッデン

 

こども部屋の人形の家に暮らす人形の一家、プランタガネットさんたちの物語。
この一家は、あちこちからぽつぽつと集められた、出自(?)も、素材もさまざまな寄せ集めの人形たち(お父さんとお母さんと子どもたちの役割を担っている)だ。
寄せ集め、といっても、エミリーとシャーロット(人形たちの持ち主である姉妹)にとってはそれぞれに思いいれがある。


たとえパーティ―・クラッカーのおまけのセルロイド人形といえども、この一家の「ことりさん」は、姉妹の目には、「ちょっと違う」と感じられたのだから。「この小さい人形には、どこかりりしいところがあるわ。わたし、ふつうならセルロイド人形ってすきじゃないんだけど」と、こんなふうにエミリーはいう。


一家の中心は、木でできたオランダ人形のトチ―。彼女は、エミリーたちの大おばあさんの子どもの頃の人形なのだ。当時は、大量生産の一文人形と呼ばれていたが、彼女は、上等の木でできていて、何代もの子どもたちに遊ばれ、不遇の時も勇気をもって乗り越えてきた。木らしい深みのある声で話す。


人形たちの衣服や持ち物を子どもたちは手作りする。端切れやリボン、毛糸やライフィアで、ブラウスにスカート、エプロンに帽子に、マントにマフ……。こまごました子どもらしい仕事が可愛らしくて、楽しくて。


そして、あの人形の家。大おばあさんのものだった、古くて上等の人形の家は、子ども部屋にやってきたとき、ぼろぼろだった。それを子どもたちが掃除して、悼んだところを修繕して(ときどきは、自分にできる対価とともに大人の手を借りて)整えていくのだが、その過程にわくわくせずにはいられない。
小さなピンクの絨毯。折り返しのある寝具。窓には本物のレース。とりわけ、わくわくするのは、もとは上等の絹張だった古いソファと椅子を蘇らせる過程だ。家具職人の手で、木の部分は黒々と艶が出るまで磨かれて、クッションや背もたれは、叔母の手で、つづれにしきに細かい刺繍が丁寧にほどこされる。


だけど、この家に、精巧で美しい陶製のマーチペーンが現れたとき、その人形に、エミリーが夢中になったとき、一家の暮らしはすっかり変わってしまう。
マーチペーンは、美しいけれど、頭の中は自惚れと悪意でいっぱいだった。


小さな人形たちは動くことも、話すこともできない。できることは「願う」ことだけ。強く願うことだけなのだ。
「しばしば人形の願いは、口に出していうのと同じくらい強いのです」
プランタガネット一家も、マーチペーンも強く願うが、その願いは、正反対だ。
子どもと遊んでこその人形で、子どもに遊んでもらうことで生き生きと暮らすプランタガネット一家に比べて、マーチペーンが子どもを大嫌いだというのが印象的だ。
人形の家は、本当はいったい、どこにあるのだろう。プランタガネットさんたちって誰のことなのだろう。
願うことしかできない人たちは、この世界にたくさんいる。
願いとは、いったい何なのだろう。


木でできたトチ―は賢くて強い。それは、トチ―自身も、家族の誰もが知っている。
だけど、ふわっと軽いセルロイドでできている「ことりさん」のことはどうだろう。
一番困難なときに、プランタガネット父さんに「まるでことりさんは、またいちだんと軽くなったみたいだな」と言わせた、その軽さって、いったい、何だったのだろう。


「わたしはなんでもよくおぼえているわ」とトチ―はいう。「しあわせにやっていきましょう」とトチ―はいう。
どんなことが過ぎ去り、どんなことが待ちうけているにしても、幸せにやっていく。