『センス・オブ・何だあ?』 三宮麻由子

 

感じる。
まずは触ること。手のひらでさわる。雨の粒を丸い形のまま触る方法なんて……そもそも、最初から、雨粒の形など気にとめた事がなかったことに気がつく。
足の裏でさわる。ちょっと注意するだけで、足の裏から、地面の情報をもっと読み取れるようになる。慣れてくると、車に乗っていても、車の下の地面の情報が体に伝わってくるという。


音を聞く。
料理をしながら、加熱の音を聞く。次々に変わっていく微妙な音の変化で、どのくらいの煮え加減かがわかる。調理器具(フライパンなど)が変われば、音も変わる。
「調理は音楽、調理器具は楽器なのだとつくづく思います」という。
外に出て耳をすませば、近い音から遠い音。大きな音や微妙な音。音だけで、風景画や地図が描けそうだ。


匂いを嗅ぐ。
四季の移り変わりをにおいだけで知る。いくつかの植物の匂いの移り変わりなら、なんとなくわかる。でも、紅葉の匂いなんて気にかけたことがなかった。
それから……。


わたしたちは、もしかしたら、目に映るものから得る情報に頼りすぎているのかもしれない。そのために、他から伝えらえる情報をいつのまにかシャットアウトしていたのかもしれない。
この本のタイトルは、レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』から。カーソンが本のなかで、“「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではない”と語っていることを受けて、さらに、「感じる」からきっと始まるはずの「何だろう(知りたい)」にいたる、『センス・オブ・何だあ?』なのだ。


著者は、四歳のときに、光を失っている。自身の状況をシーンレス(シーン=風景がないこと)と名づけた。
「どんなに耳を澄ませても手で触れても、空や谷など広い景色を見える人と同じように楽しむことはできません」
と著者はいう。
「けれども、鳥の鳴き声を二百以上聞き覚え、生態を学び、そこから発展して自然観察を勉強しているうちに、頭の中に一種の風景がイメージとして浮かんできたのです」
センス・オブ・何だあ?――感じること・何だろうと思うことは、シーンレスからシーンフル(景色でいっぱい)の心を取り戻すことだった。
著者の『センス・オブ・何だあ?』の始まりは、まだ小さかったころ、両親がさまざまなことを体験させてくれたこと。
「私になにかを経験させるとき、両親は「感じられる」ことと「楽しめる」ことだけをゴールにしたそうです。」
将来役に立つかどうか、ということではなくて。


目が見えない著者にとって、ほんとうは、感じること、何だろうと思うことことは、そのまま生活だ。生きていくための、文字通り命綱なのだ。研ぎ澄ましておかなければ、即座に事故につながるし、命を失う恐れもある。
だけど、著者は何よりも楽しんでいる。自分の心の景色を豊かにしていくことでもある。まるで、大きな未完の風景画が、少しずつ丁寧に描き重ねられていくように。


これは、こどものとも年少版2018年4月号~2020年3月号折り込み付録の連載をまとめたもの。幼い子どもたちや、子どものそばにいる人に向けて書かれたものだ。
子どもたちのひと時ひと時が、今よりもずっと素敵になるように、と優しい言葉で呼びかけている。