『椿宿の辺りに』 梨木香歩

 

『f植物園の巣穴に』の「わたし」こと佐田豊彦の曾孫が語る物語である。
語り手は、山幸彦(やまさちひこ。通称・山彦)。従妹の名前は海幸比子(通称:うみさちひこ。海子)。祖父の佐田藪彦(豊彦の子)の願いで名づけられた。

山彦と海子の解釈によれば、『記紀』の海幸彦・山幸彦の諍い話の、山幸は、とんでもなく陰険な神ということになり、そういう話だったっけと驚くやら、納得するやら。ヒーローだった神が、見方を変えれば、別の姿に見えてくるのだ。


この山彦と海子は、しばらく前から、身体の不調に悩まされている。それぞれ別個の病名だけれど、どちらも、眠ることさえできない激しい痛みで、原因がわからない、という共通点がある。
山彦が二人の連れとともに、「椿宿」を訪れた一つの理由は、(ここまでにいろいろなことがあったわけだけれど)簡単に言えば、痛みの由来を探すためでもあったのだ。
椿宿とは、佐田一族のおおもとの故郷の古い地名である。佐田家の持ち家である、いわくつきの古民家がある。この「いわくつき」ということは後からおいおいわかってきたのだ。


古い家は、いろいろと物語を秘めている。
家の内外、隅々まで、住んだ人びとの生活の知恵や信仰の名残のようなものが残っていて、ああ、こんなところにこんなものが、と驚いたりする。
椿宿の家でも、戸を開けた瞬間から、そういうものが目を覚ます感じがおもしろい。
家に住むのは人だけではないのだ。人の一生よりもずっと長く生きてきたものがもつ、不思議な気配に、ぞわっと鳥肌がたったりする。
恐れもあるけれど、むしろ畏れで。


痛みとはなんなのだろう。
山彦は、考えている。
「だが、潜んでいるものを暴き出して退治する――それで果たして問題は解決するのだろうか」
「痛み」のおおもとのところを探しながら、こういう考えに至るとき、それは、痛みに限らない、もっと大きなもののことをも思っているのだ。
身体のどこかが痛い、というのは、いったいどういうことなのだろう、と考えてしまう。どこかとんでもない遠くに源があり、そこから細い流れが始まり、長く流れ下って、身体の表面に、痛みという形で現れているのかもしれない。
そうしたら、痛みの由来を探す、と簡単にいうけれど、それはとんでもなく大きな、自然の不思議にいたる道であるかもしれない。


または、一つの警鐘であるかもしれない。
たとえば、自然の猛威に出会ったとき、脅威から身を守るために、人の社会は、性急に対症療法的な措置を講じようとする。そういうときに、先の山彦の問いかけをもう一度思い起こしてみる。
「だが、潜んでいるものを暴き出して退治する――それで果たして問題は解決するのだろうか」


記紀』では、海幸彦と山幸彦の間にほとんど注目されないが、もう一柱の神がいるのだという。
現在の海幸彦山幸彦にもまた。
祖父、藪彦は、なぜ孫たちに神話の神の名前をつけたかったのか、語り手が、本当の理由に思い至るとき、ふっと身体が熱くなる。
物語からいま、水が、おおらかに流れ始めたような気がする。