『五足の靴』 五人づれ

 

「五足の靴が五個の人間を運んで東京を出た」から始まる紀行文。
明治四十年盛夏である。
五個の人間、というのは、雑誌『明星』を主宰する三十代半ばの与謝野寛と、そこに集う二十代前半の詩人たち四人。北原白秋、平野萬里、太田正雄(木下杢太郎)、吉井勇である。
五人は九州各地を漫遊し、その紀行文を「東京二六新聞」に連載した。毎日、五人交代で書いたが、いったい誰がいつのどの文章を担当したのかは読者にはわからない。筆者名は「五人づれ」である。


与謝野寛だけが黒い背広、後の四人は学生ないしは学生上がりで、みな揃って金ボタンのついた学生服姿であったから、「よそ見にはまるで修学旅行のように見えたかもしれない」と後に吉井勇は回想している。


八千代海を渡る船から海に飛び込んで泳いだり。
足元の蛇と蝦蟇とのにらみ合いにちょっかい出して、あげくに逃げ出したり。
阿蘇山の噴火口に金剛杖を投げこんだり。
まったく修学旅行のようだ。


文章は美しくて、ときどき、これはいったい五人のうちの誰が書いたのだろう、と詮索したくなる。


たとえば、雨の日の佐賀の町はずれで。
「行く所として川の無い所はない。皆灌漑の用をなすべき緩く流るる平野の小川である。台湾藻と称する河骨に似た藻が所せく繁って、すっくと咲いた紫の花が小女のように美しい。藻なき所には蜘蛛のような四手網が張られてある。暫くして筑後川に達した。雨はいよいよ降る」


それから画津湖で夕刻、屋形船に乗って。
「静かだ、静かだ、そよとの音も無い。満天の星が澄徹の水にじっと動くこと無く映る。蛍がたわたわと飛ぶ」


荒れた海を渡る船で酔ったり、「よい宿に案内する」という車夫の口に騙されて恐ろし気な宿に行きついたり、大江村の天主堂教会にバアテルさん(フランス人宣教師)を訪ねたり、三池炭鉱でダンテの夢の地獄を想像したり、白秋の柳川の実家に転がり込んだり……
そして、旅は詩や歌にもなり、紀行文とともに掲載されているのがうれしい。


新聞の連載は二十九回。いったいどのくらいの長きに渡る旅だったのだろう。時間を気にせずにゆったりとめぐる旅程がうらやましい。
やがて、ふところも寂しくなる。
東京に帰る夜汽車の窓に思いがけず「ほうき星」が流れるのが印象的で、最後まで美しい幸福な旅、五足の靴あと辿るのは楽しかった。