- 作者: 長谷川摂子,金井田英津子
- 出版社/メーカー: 福音館書店
- 発売日: 2003/06/15
- メディア: 単行本
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戦争が終わってもうすぐ十年になろうか、という頃。日本海に近い小さな町の春から秋の初めまでの七つの物語。
「わたし」ことなおちゃんは、当時九歳だった。
祖父母がいて、お手伝いさんがいる大家族、兄弟姉妹五人の真ん中でなおちゃんは育つ。
少女たちの庭遊びの光景は、私には懐かしい。
周りの大人たちのそれとなくの気遣いはふんわり温かい。
季節ごとの風物の描写を読めば心弾む。
美しい文章で綴られていく物語は心地よいが、これら日常の光景のなかには、ちょっと異質なもの・不思議なものがひっそりと混ざる。
なおちゃんは、気がつく。出会う。あるいはすれ違う。
夢か現か、という程度の儚さで。
そういえば……
きょうだいでカルタ遊びをしているとき、読み札「子は三界の首っかせ」の、三界という言葉をなおちゃんが気にする場面がある。
「三界ってなに?」と、お手伝いのおたかさんに尋ねるのだ。(第二話『椿の庭』)
三界。仏教で、衆生が輪廻する三つの世界(欲界・色界・無色界)のことだそうだが、考え考え話すおたかさんのなおちゃんへの答えは、
「さあら、この世とあの世と、へえから、境の世の三つの世界なや気がしますが……」
境の世。仏教とは別の三界もあると思う。
この物語に混ざる不思議は、きっと「境の世」に関係している。
なおちゃんは、この世とあの世の境に、その気もなく一時足を踏み込んだのかもしれない。
役を終えた人形たちが渡って行く場所(第一話『人形の旅立ち』)、病気の妹だけが見た羊のいる草原(第三話『妹』)、そして、畑の守りする虎おじじのもとに遊びに来る振袖の少女(第二話『椿の庭』)……
そういうものに出会う時、なおちゃんは、あの世を覗く場所にいるのだ。
それは、怖ろしくはない。
たとえば第二話『椿の庭』で、庭仕事をしている虎おじじのところに、ときどき遊びに来る「きみじょっちゃん」は、遠に亡くなった子だ。
「幽霊」ではない、と虎おじじは言う。
「たったの十で死なれたしゅが、なんでゆうれん(幽霊)なんぞになられますかい」
そして、
「この世の塵芥を落とし切れん死人さんが、いやいやゆうれんになられますだ。ゆうれんはそれが重とうて難儀しなさる。よう、空までのぼれん気の毒な死人さんじゃ」
戦争をくぐり抜けて、大切な人を亡くし亡くし生きてきた人がこのように言う。
こういう人々の居る場所に開ける「境の世」が、怖ろしいわけがないのだ。
ただ、しみいるような美しさと寂しさが、ひたひたと胸に迫ってくる。
最後の物語『観音の宴』は、これまでの物語とちょっと趣が違う。
不老不死、死ぬことのできない人が出てくる。
死ぬことのできない人は語ってきかせる。
死にたくても死ねない、という立場から、死ぬ身であるとは、どういうことかを。
死ぬ身の人が、限られた今生を、一生懸命暮らすうちに、助けたり助けられたり、なぐさめあう同志が現れるだろうと。
「でもな、なんで同志(どし)ができるか、わかるか。そりゃ、にんげがいつも命ちゅうたよりないもんをかかえて、生きとるけえ、お互い大事なんじゃ。」
この最後の物語から、これまでの六つの物語を浚うようににして、思い出す。
ああ、なおちゃんのおばあちゃんが、あの時もこの時も、語っていたっけと。
たとえば、第四話『ハンモック』で、子をみんな戦争に奪われて神経(しんけ)を病んでしまったおとよさんがお稲荷さんのお供えを黙って持っていくのを、なおちゃんは見てしまった。その時、あの家はお稲荷さんの守役なのだと、おばあちゃんは言ったのだった。お供えを下げる(持ちかえる)のも、守役の勤めなのだと。
また、ある夜、突然現れて一夜の宿を求める旅の瞽女には「この町内には、あなたのような方の宿になるお堂がありますけん、そこに案内しますが」と話す。昔からの町内の約束なのだそうだ。
儚い命の同志と同志とは、互いに気にかけ、支えあいながら生きていく。
この世に浮遊する不思議を思って読んでいたが、心に残るのはこの世に足つけた人々の繋がりだった。