『おばあさん』 ボジェナ・ニェムツォヴァー

 

「わたしが最後に、あのやさしい、穏やかな顔を見、あの青ざめた、皺だらけの頬にキスし、善良さと愛情がありありと出ているあの青い目に見入ったのは、もうずいぶん前のことです」
このように作者が懐かしむ祖母が、この物語のおばあさんのモデルである。
「あとがき」によれば、おばあさんだけではなく、物語に登場する家族も、村の人びとも、ほとんどが実在の人だったけれど、物語は「やはり小説で、かなりの虚構化、単純化、理想化がおこなわれている」とのことだ。
作者は人生のもっともつらい時期に、この物語を書いた。
「私は少女になりきって、思いも明るく草原や森や木立ちを走り廻り、あの純朴な人びとを残らず訪れて廻りました」
と作者は振り返る。
「懐かしいおばあさんの足もとに逃避しました」
と。
これだけで充分。亡くなって、ずっとあとになっても、おばあさんは、大切な孫娘を助けにやってきてくれたのだと思う。故郷の美しい自然や懐かしい人々を伴って。
わたしは、少女の作者のあとを喜んで走り、森番や粉屋の夫婦に挨拶をする。
川の縁に立ち止まり、薄幸の狂女ヴィクトルカの歌に耳をすます。
おばあさんを見送りながら、侯爵夫人(領主である侯爵夫人までもおばあさんを相談相手として頼りにしていた)が、感に堪えたようにつぶやいた言葉も聞こえる。「幸福なひとだこと!」


村の人たちが、おばあさんを頼り、相談に乗ってほしいと思うのは、例えば、子どもを相手にしても、
「おばあさんは子どもたちの言うことがみな正しいとは思わなかった。しかし心のなかでは「わたしたちだって、子どものときは同じだった」と思っていたのである」
という理由だったのかもしれない。
公爵夫人の「幸福なひとだこと!」に似ている。


人が集まれば、古くから伝わる民話や近隣の村の変わった出来事など、おもしろい話が次々に語られる。
森の悲しい狂女ヴィクトルカの話、伐り倒されたシラカバの話、九つの十字架の話……。
女たちが糸車を持って集まることは、「糸車といっしょにおもしろい昔話と陽気な歌を持ってくる」という意味だ。


ヒツジ飼いのヨーザはどのようにして、いつ雨が降り、いつお天気になるかを知るのか。
森番が、カモシカを射ることができなくなったのはなぜなのか。
おばあさんにとって一番頼りになるカレンダーが、山と空だというのは、どういうことなのか。
四人の孫たちに混ざっておばあさんを始め、村の知恵者たちの話を聞きたくなる。
そして、一章読むごとに、侯爵夫人の呟いた言葉「幸福なひとだこと!」をしみじみと味わう。