『阿弥陀堂だより』 南木佳士

 

谷中村の七つの小さな集落の内、六川集落は家が二十三戸しかない。住民はほとんどが老人である。この集落を、山の中腹に建つ阿弥陀堂から孝雄と美智子の夫婦が見渡すところから始まる。
二人は、東京から、越してきたばかり。この村の出身である夫の孝雄は、小説家であるが、新人賞以来、書けずにいる。
妻の美智子は大学病院のエース医師だったが、ある事件がきっかけで、心の病に苦しんでいた。そんな折、無医村になりそうなこの集落の診療所に招ばれたのだった。
ここで暮らす夫婦の最初の一年間の物語である。


自然がこぼれんばかりの山里。ほとんど自給自足に近い生活をする老人たちと、自然に逆らうことなく暮らせば、時間はゆっくりすぎていく。


物語の中核にいるのは、阿弥陀堂の堂守のおうめ婆さん。これまで生きてきた九十六年間、一度も集落から出たことはない、という小さなおばあさんの、慎ましく満ち足りた日々。
それから、ときどき村役場から、おうめ婆さんの話を聞きに来る「谷中村広報」のコラム担当の小百合。彼女は、過去の闘病が原因で喋れない。若い彼女がときどき、誰よりも達観しているようにみえるのはなぜだろう。


物語のタイトルでもある「阿弥陀堂だより」とは、「谷中村広報」の隅に載るコラムだ。
とりとめのないおうめ婆さんの語りから、小百合によって選り出された言葉がそのまま、数行のコラムになる。素朴で滋味深い言葉。


「自然がおうめ婆さんの口を借りて語った言葉。『阿弥陀堂だより』は常に難病の再発を意識して、生命のはかなさに敏感になっていた小百合ちゃんにしか聞こえなかった森のささやきではなかったか」


「森のささやき」というならば、この物語がそのまま、わたしには森のささやきのように感じられる。
「背伸びばっかりしていると視野に入らない丈の低いものの中に、実はしっかりと大地に根をおろしている大事なものがあったのよ」
美智子の言葉。


これは小説であるから、ささやきではすまない大きな事件や小さな事件が起こり、それらの重なりが主人公たちに作用していくのであるが、心に残るのは、何も動きがないときの言葉だ。
「肯定の意味の諦め」という言葉。
お婆さんに「小説」とは何かを説明しようとする孝雄と小百合の言葉。
古い家のカマドや風呂を炊く炎と、新しい家につくった暖炉の火との違いを語る言葉。
……読書中、ずっと本の中の森の声を聴いていたんだなあ、と感じている。