『ポロポロ』 田中小実昌

9784309407173

 

七つのエッセイが収録されている。
表題作『ポロポロ』は、自宅(教会。丘の上の一軒家)に帰る(旧制)中学四年の著者が、急坂をのぼりきったところでソフト帽をかぶった人を追い越す。ここで出会ったということは、夜の祈祷会に参加する人であるはず、と思い、先に帰りついた著者は、その人のために玄関の戸を開けっ放しにしておく。
けれども、その晩、著者のあとに教会を訪れた人は誰もいなかった。さらに、確かに開けておいたはずの玄関の戸がいつのまにか閉められていたが、中にいた誰かが閉めたわけではなかった。
はて……
と、そんな話だったのだけれど、要はきっとそこではないのだ。


著者の父の教会の祈祷会は少し変わっている。信者たちの言葉(?)は祈り、というよりも異言なのだ。言葉にならない言葉を「ポロポロ」と呼んでいた。
ポロポロは、「クリスチャンたちはおどろくだろうが、信仰というものにもカンケイないのではないか。信仰ももち得ない、と(悟るのではなく)ドカーンとぶちくだかれた時、ポロポロは始まるのではないか」
願うことではなく、望むことでもなく、賛美でもなく、感謝でもなく、その経験が信仰の拠り所になることもなく……ポロポロはポロポロでしかないのだ、という。
本当はよくわからないけれど、何か別の言葉に代えることのできない祈りともいえない祈りのようなものがあるのか、と思った。
ただ、ありのままの今の自分の状態を受け入れる、ということだろうか。
たとえば、この夜の、来たはずなのに来なかった訪問者のことも、理屈を(不思議という言葉さえも)退けていられるというようなこと。


あとの六編は、戦争末期、初年兵として、従軍した記録である。
戦闘はなかった。それでも、過酷な行軍のうちに、人はばたばた亡くなる。ほとんどが戦病死だった。著者もアメーバ赤痢マラリアコレラにまで罹り、伝染病棟(馬小屋のような場所)を点々としながら戦後を迎える。
語りはユーモラスと言えるくらいなのだけれど、シモの話が苦手だった。
本当の話だったんだ。死と隣り合わせの病苦(それも不潔で、食べ物もろくにない病棟とはとても言えない隔離施設での)を思えば、この気持ち悪さこそリアル、と思うのだけれど。
ここでも……『ポロポロ』に通じる受け入れを感じる。もっと大きな感情の動きがあってもいいはずなのに。
未来も過去もない(死ぬかもしれないというごく近い未来さえも考えない)、今という一点だけしかないような、そういう受け入れ方、かな。
事実が物語になってしまう(してしまう)ことに対する抵抗も、書かれていたけれど、それも、今だけしか見ない、今だけを受け入れようとするところに通じる感じだ。達観、といってしまうとまたちょっと違うような、現実を超越したような、とても卑近に見えるのに超えている。