『白バラは散らず』

 

「白バラ」とは、第二次世界大戦のドイツで、ナチスによる思想統制と恐怖政治のさなかに、ヒットラー反対、戦争反対の運動を起こした学生たちのこと(または彼らの運動)である。彼らは次々に逮捕され、主力メンバーのほとんどは死刑になった。
この本は、運動の中心になったショル兄妹(ハンスとゾフィー)の姉インゲ・ショルによって書かれた。


私はまず、『白バラ抵抗運動の記録――処刑される学生たち』(クリスティアン・ペトリ)を読み始めていたのだけれど、状況(起きている事件や人びとの様子、そして、白バラのざっくりした活動など)について、(読者は周知の事実であろうとの判断からだろうか)あまり親切に説明されていないように感じて、戸惑い、まずはこちらの本を読んでみようと思ったのだった。
『白バラ抵抗運動の記録』によれば、この本『白バラは散らず』には、著者が知り得なかったはずのことがらが、想像や憶測により事実であるかのように書かれている部分があちこちに見られるそうで、細かい問題はあるが、日本に「白バラ」を広く知らしめた本でもある。
読みやすく書かれているし、こちらで大まかな輪郭は掴めるだろう、と考えて、二冊の本をほぼ平行して読んだ。


『白バラ抵抗運動の記録』は膨大な資料や多くの関係者たちに聞き取りをして、客観的に事実をあぶりだし、「白バラ」とは当時のドイツにとって、どういうものだったのか、を考察している。
対して、この本『白バラは散らず』の著者は、「白バラ」の中心メンバー(ハンスとゾフィー・ショル)の姉であり、運動の実態に迫るよりも、遺族として、無念に散った弟と妹の願いや理想や行動を見える形で残そうとした、という印象だ。弟妹の追悼の意味もあるのだろう。
この本のなかでは、ほかのメンバーについての記述が少ないのも、そういうわけなのだろう。
読んでいると、愛する弟妹への思いが伝わって来る。弟妹を惜しむ、姉の深い愛情と悲しみが。
姉だからこそ書き得た、家庭の中の弟妹の素顔や、両親をはじめとした家庭の様子などを知ることができる。
(「事実ではないこと」については……著者には、そんな意識はなかったと思う。おそらく、弟なら、妹なら、こういうときには、間違いなくこう思ったはず、こう行動したはず、との(姉だからこその)想像から筆を運んだものと思う。明らかな事実の羅列だけでも、彼らの(精神的、道義的)偉大さは十分すぎるほどに伝わってくるのだが。)


若い彼らがナチスを憎んだのは、彼らを育んだ家庭によるのだろう。ことにお父さんの
「わしは、おまえたちがまっすぐに自由に生きぬいてくれることだけを願っている。たとえ困難であっても」
という言葉が、心に沁みいる。密告が推奨された恐怖政治のさなかでの、わが子への言葉だった。


また、逮捕されてから死刑が確定し執行されるまでの、ゾフィーたちの落ち着き、静かな明るさ(刑務所の同じ房の囚人や、取調官らの証言)なども忘れられない。
彼らを活動に至らせるまでの葛藤も、断頭台を前にしての落ち着きも、キリスト教への信仰によるところが大きい、という。
死刑執行直前に、シェル姉妹と、(白バラメンバーの)プロープストとの三人は、ちょっとの間、話をする機会を与えらえた。「もう何分かたったら、永遠の世界でまた会おうぜ」と言い合う三人。この言葉から、日本の特攻隊員たちの別れの挨拶「靖国で会おう」を思い出したが、ふたつの言葉から、受ける印象は違う。
ともに、否応なしに死なせられる運命にありながら、片方は、自らが選んで帰依した信仰によるものであるのに、もう片方は、彼らに死を命じた側から降りてきた言葉だったせいだ、と思う。


巻末には、「白バラ」が作成したパンフレット、ビラが、載っている。
彼らの教養の高さ、深さに驚く。アジテーションというよりも、評論であったし、一篇の詩のようでもあった。