『私の釣魚大全』 開高健

 

これは、1968年の釣り歩きのエッセイをまとめた『私の釣魚大全』(1969年)に、新たに四編の釣りエッセイを加えて完本としたもの(1978年)である。
1969年の「初版あとがき」に、ウォルトンの『釣魚大全』をぼろぼろになるまで繰り返し愛読している若者が出てくる。それなのに、この若者は、一度も釣りをしたことがないのだ。
著者は、
「なるほど、この本はこういう読まれ方をするのだな。卒然として私は何事かを知らされた気がした」
という。
私も、釣りなんてしたことがない。釣りのしかけについても、釣り方も、ほとんど興味がない。それでも、釣り人の話を聞くのは好きだし、釣り人のエッセイも好きだ。
釣り場の周囲の自然描写や、魚と向かい合う人の心模様や、それから釣り人たちの素朴な語らいやは、町場のカフェや書斎から生まれる言葉と若干違っているように思える。


ミミズを捕まえるところから始まり、コイとり名人を訪ね、ワカサギ、カジカ、タイ、そして、幻の魚イトウへと、段々獲物は大きくなる。
舞台も、近場の川から、だんだん遠く、バイエルンメコン河まで遠征していく。
軽い語り口で、何じゃこの下品なのは!(ご想像くださいませ)という冗談をぽんぽん織り交ぜて笑わせもするが、一方で(同時に?)おおらかなロマンチックがあるのが好きだ。


たとえば、『チロルに近い高原の小川でカワマスを十一匹釣ること』(これは、以前読んだ『安楽椅子の釣り師』にも収録されている。)
広々とした牧草地を軽快に駆けていく仔鹿(「金色の焔となって消えていく」という表現)のこと、釣り場に突然現れた少年と一日過ごし、去っていくのを見送ること(自転車で、黄金色に輝く牧草地を去っていくのだ)
「あれは仔鹿そのものではないのか。さきに逃げていった仔鹿がもどってきて、いままた去っていったのではないのか……」
との言葉に、ほうっとため息をついてしまう。


夢中で釣っているように見えるが、魚が釣れる川や池が住まいの周りからはどんどん姿を消していくことを嘆いてもいる。随所にぽろぽろとこぼれるように、書かれている。
「……空と土と水にひしめき、ざわめいていた、あのおびただしい生はどこへ去ったのだろう」
このエッセイが書かれた1968年に、すでにそんなふうだったのだ。
「切りきざむことに熱中したあげく得たもののあまりのみすぼらしさと希薄さにほとほと愛想がつきる想い」を1968年にすでに著者は感じている。
その時代は……わたしにとってはまだまだ身近に自然があった時代という覚えだから、まして今。胸が痛いのだ。


釣り竿を担いで夢中で駆けていく子どもの幻がちらちらと見える。黄金色の夕日の中の幻。