『安楽椅子の釣り師』 湯川豊(編)

 

安楽椅子の釣り師 (大人の本棚)

安楽椅子の釣り師 (大人の本棚)

  • 発売日: 2012/05/23
  • メディア: 単行本
 

 

「この本に収められたエッセイはすべて、釣りという遊びを筆者たちがいかに楽しんでいるかを語ったものである」と、巻末の「改題」に書かれている。
13名の筆者(登山家、画家、随筆家、小説家、生物学者…などなど)による13の釣りエッセイだ。
わたしは、釣りはしたことがないし、これからもたぶんしないだろうなあ、と思う。でも、釣り人でなければ、決して入り込むことがない場所の話や、そこで起こった出来事(釣り以外でも)を聞くのは楽しい。
せっかく釣りの事を書いているのに、その周辺(枝葉末節?)に興味がある、なんて言うのは、失礼かな、とも思うけれど、読んでいると、案外、筆者たちも、本題の釣りよりも、周辺について、書くことのほうを楽しんでいるのではないか、と思ったことが、何度もあったから、きっと、これでいいのだ、と思う。だって、この本のタイトルは『安楽椅子の釣り師』だし。


たとえば『チロルに近い高原の小川でカワマスを十一匹釣ること』(開高健)には、こんな一節。
「ああ。
 魚なんか。もう。
 どうでもいいじゃないか」
と。魚を釣りに来た釣り師に「魚なんかどうでもいい」と言わせた瞬間の描写はこんなふう。
「……そして腰まで草に蔽われてすすんでいくと、ああ、彼方のブナの木立から仔鹿が一頭とびだしてきて、広びろとした丘のふもとの牧草地を、高く頭をかかげてのびのびと、走っていく。(中略)その軽快な姿が小さな金褐色の焔となって牧場のかなたに消えていくのを見送っていると、全心身が丘と草いきれと静寂に満たされ、爽快な酔いでいっぱいになってしまう」
『盧声』(幸田露伴)にも、釣り場の風景をスケッチするように描写してみせてくれる件がある。そして、こう書かれる。
「釣も釣で面白いが、自分はその平野の中の緩い流れの附近の、平凡といえば平凡だが、何ら特異なことのない和易安閑たる景色を好もしく感じて、そうして自然に抱かれて幾時間を過ごすのを、東京のがやがやした綺羅びやかな境界に神経を消耗させながら享受する歓楽などよりも遥に嬉しいと思っていた」
こうした文章に出会うと、ほうっとため息をついて、もうこの本を読んでいる今という時間が嬉しくてしかたなくなる。
釣り師たちは、もちろん魚を釣りにいくのだろうけれど、その一方で釣っている、魚以外のものが羨ましくて、釣り人ではない自分のことをちょっと残念に思ったりする。


釣り場はたいてい、ひと気のない場所であることが多いから、夜ともなると真っ暗になる。そうすると……変わったことも起こる。
『後山川の夜』(舟越保武)で、真夜中の林道のヘッドライトの光芒の中に見たあれ。見たのは、筆者だけではなくて、同行者がそろって「見た?」「うん」「なんでしょう」「わからない」あとは黙りこむしかない……そういうことも起こるのだ。
『おばけ鮒と赤い灯』(河合雅雄)の、燈籠のなかにちろちろと燃えるような赤が、鮮やかに見えるようなのだけれど、実際、それは、いったいほんとうにイタチのしわざなのだろうか。
『横谷源流』(舩井裕)での出来事は、へたへたと力が抜けるような気味悪さ。おばけでも狐狸でもなく、人が……


出会いの物語、別れの物語も印象に残る。釣りがらみで出会った人が、その後、かけがえのない友になったり、もう一度会いたいと願っても二度と叶わなかったり、どれも、筆者たちの忘れられない出会いだった。
開高健野田知佑幸田露伴が出会った少年たちが、心に残る。