『狩猟文学マスターピース』 服部文祥(編)

狩猟文学マスターピース (大人の本棚)

狩猟文学マスターピース (大人の本棚)


リゴーニ・ステルンの『猟の前夜(『雷鳥の森』より)』で始まり、宮沢賢治の『なめとこ山の熊』で終わる11篇の『狩猟文学』といえば、狩猟を知らなくても「文学」として、なんと魅力的なことだろう。
しかし読後、狩猟――狩猟文学というものを私はなんて狭くとらえていたことか、と気がついた。ここで取り上げられた11篇の狩猟文学のアンソロジーを前に、畏れを忘れての偏見が恥ずかしくなってきました。


編者・服部文祥は、解説で、自らの狩猟体験や、狩猟に対する思いを語る。
たとえば、稲見一良の『密猟志願』について解説し、次のように言う。

>実のところ狩猟ほど、自然や動物に対する敬意が強く、深い行為はない、と私は思う。ただ、見た目と結果が敬意とはあまりにかけ離れていて、行為に隠された逆説的世界観は一般には理解されにくい。狩猟者の中に血のように流れるにもかかわらず解説の難しい思想を、物語へ置き換えることに成功した小説家が日本にいたことを喜びたい。
「自然」に全身全霊をあげて向き合おうとする人を前にして、生半可で傲慢な「自然保護」という言葉は、吹き飛ぶ。
ここに採択された11作品をみれば、編者が「狩猟」にどんな意味をこめたか、「自然や動物に対する敬意」とはどんなものなのか、察せられるのだ。
少なくともただスポーツとしての狩猟は、ここにはなかった。


11作品のトップ、リゴーニ・ステルン『猟の前夜』では、猟の準備とともに、これから始まる11狩猟文学を読む準備を読者は与えられるのだ。
たとえば、こういう言葉で。

>…一方には、獲物そのものばかりか、生前のそいつにまつわるすべてを――自由、太陽、時空、嵐を――奪う人間が存在する。そこで得たものは、当人がそうと気づかぬままに、やがては彼の力となってくれることだろう。日々の仕事にとりかかるとき、さらには年老いて、今度は自らが死を待つ番になったときに。(『猟の前夜』リゴーニ・ステルン)
「今度は自らが死を待つ番になったときに」・・・狩るものと狩られるものの命の重さはきっちり平等、ということだろうか。


このアンソロジーのしめくくり『なめとこ山の熊』では、狩るものと狩られるものの一体感に圧倒される。
それは、星野道夫『新しい旅』で、彼がイヌイットのケニスに拒絶されたこと(そして恭しく拒絶を受け入れた事)とも繋がる。
その世界の外のものが決して手を触れることのできない、聖性さえ感じる「それ」を当たり前の神々しさで行っている猟師たち・・・11篇の最後に、この物語を改めて味わえたことを至福と思う。
そう思えば、この本の、作品の並び順のなんと秀逸なことだろう。


>ぼくは鹿への感謝をつぶやく。自分がそれに値しますように、鹿が与えてくれた生命を担い続ける資格がありますように、鹿もぼくもその一員であるもっと大きな生命を分かち合う資格がありますように、と。  (『鹿の贈りもの』リチャード・ネルソン)
>人が自然から生命をいただくのは自分の力によるものではない。自然の力によって生命を授かるのだ。(『鹿の贈りもの』リチャード・ネルソン)
>サラは肉を聖なるものとして、つまり彼女を取り巻く力(パワー)の世界と自分とをつなぐ相互交換の媒体として扱った。自然との関係において彼女のすることはすべて、生活の行為であるとともに一つの祈りだったように思う。(『鹿の贈りもの』リチャード・ネルソン)
>ガイドブックやソノシートで、彼らは何を知ったというのか。何を捉えたと思っているのか。野生の隠された部分まで覗き込んで何を見ようというのか。それより、生きものの一つ一つが人の窺い知れない神秘を秘めて、密やかに懸命に生きそして死んでいくのだということを知り、神の摂理としか言いようのない謎を、謎のままに感じ取ればいいのではないか、と私は思う。 (『「密漁志願」より』稲見一良
>未踏の大自然……そう信じてきたこの土地の広がりが今は違って見えた。ひっそりと消えてゆこうとする人々を追いかけ、少し立ち止まって振り向いてもらい、その声に耳をかたむけていると、風景はこれまでとは違う何かを語りだそうとしていることが感じられるようになった。人間が足を踏み入れたことがないと畏敬をもって見おろしていた原野は、じつはたくさんの人々が通りすぎ、さまざまな物語が満ちていた。(『新しい旅』星野道夫
>鯨は、わしにくわれて成仏せえちゅうて、取ったらなんまんだぶと拝んだら、それでええんじゃ。殺生の罪は、それで親様がゆるしてくれる (『「深重の海」より』 津本陽
こういう言葉にであうたび、狩猟とはどういうものなのなのだろう、私は何を知っていたというのだろうと、思う。
言葉だけではない。
わたしはこの本全体から森を感じる、原野を感じる。不意に現れる鹿や熊を感じ、遥か彼方から幻のように現れるカリブーの群れを感じる。
感じつつ、不用意に踏み込むことのできない結界のこちら側にいることも感じてしまう。
人間はいつ自然の一部であることを忘れたのか。狩る事狩られる事、そして、食うこと食われることをともに受け入れることを忘れたのか。
そんなことを思いながら、本から吹いてくるエネルギーを浴びている。