『スナーク狩り』 宮部みゆき

 

関沼慶子は、自分を利用して棄てた男の結婚披露宴に、散弾銃を抱えて踊り込もうとしていた。
織口邦男は職場では温和で面倒見のよい「お父さん」だったが、この夜、或る目的のために関沼の銃を奪おうとしていた。
織口を慕う後輩、佐倉修二は、ある予感を感じ、織口を追いかける。


いくつもの顔と事情・情景、さらに、付随する顔たちがばらばらに動き出すが、やがて目的地が絞られると、そこに向かって走り始める。
間に合うのか、必ず、どうか、と願いながら、速力をあげて走っているような気持ちで読んでいる。


夢中で読みながら、「この物語がなぜスナーク狩り?」と思わないでいられなかった。
『スナーク狩り』はルイス・キャロルのナンセンス叙事詩だった。
誰も見た事のない、いるのかいないのかわからない怪物(?)スナークを大真面目に狩りにいく探検隊の話だった。
だけど、宮部みゆきの『スナーク狩り』は、狩る(?)べきものも、目的地も最初から定まっている。
どうしてスナーク狩りなんだろう、と思いながら読んでいると……
あ、そういうことだったのか、と思ったのは、この言葉に出会った時かもしれない。
「この目の奥に囚われていた囚人は、××が制御しようとしていた囚人は、もうとっくに脱獄してしまった」


冒頭に冠されたエピグラムは、キャロルの『スナーク狩り』(真崎義博訳)の一節だ。
「おれはスナークと闘うんだ――毎日、日が暮れて夜になると――
 半狂乱の夢のなかで
暗闇のなかでそいつに野菜を与え
 火を起こすのに使うんだ(後略)」


スナークは、人の目の奥に囚われている。
もしも、そいつが脱走したら自分が喰われる。喰われたら自分は消えて、そいつが残る。
そこにそいつがいる、とわかるのは、喰われることを承知して、「出てこい」といいたくなる理由があるからかもしれないのだ。外にいる怪物と自分の中にいる怪物を闘わせたくて。
目の奥で、人は葛藤する。暴れ出ようとする怪物スナークを押さえつけようとする。押さえながら餌を与えて育ててもいる。
こんな状況、おかしくならないほうが不思議だ。
こんなことになったのは、物語の登場人物の一人が言うように、「間違っているのは、~~じゃなくて、もっと別のところのような気がするのです」
でも、それならどうしたらいいのか。


色々なものが失われたが、気になっていた場所に一つ、明りが灯ったことは何よりの喜びだった。