『ミヒャエル・エンデのスナーク狩り~L・キャロルの原詩による変奏』 ミヒャエル・エンデ

 

ミヒャエル・エンデが翻訳したルイス・キャロルのナンセンス叙事詩『スナーク狩り』と、
ミヒャエル・エンデが作曲家ヴィルフリート・ヒラーと組んで作り上げた戯曲『スナーク狩り~クランたちのための歌芝居』とが収録されている。
戯曲では、原詩にさらに追いかぶされるような遊びが加わり、にぎやかだ。
幕間に、シャムの双生児として、ルイス・キャロルとチャールズ・ドジソンが現れる。
いってくるほどに性格の違う二人が、相手をこき下ろし、従わせようと言葉を闘わせる。(二人は結局一人。相手が消えたら自分も消えてしまうよ……「なにか」みたいに)
ドジソンのせりふ「子どもは理解せずして理解する。賢いんだ」が印象的だった。


だけど、むしろ、この本の魅力って、本文(?)の前や後ろにどっさりついた様々な筆者による「まえがき」や「まえがきのまえがき」「緒言」、「あとがき」や「あとがきとまえがきへのあとがき」や……わけがわからなくなるほどたくさんの尾ひれ胸びれ的な文章なのだと思う。

たとえば、G・K・チェスタトン
「ユーモアこそは、あらゆる精神的能力のうちもっとも謎めいていて、理性と非理性のあいだで永遠に眠り続けているものなのだ
(中略)
まったく意味も分からないのに、嬉しいと思うことがあるが、それらは、子どもが遊ぶためではなく、心理学者たちがあれこれ考えて正気を失ってしまうためのものなのである」

ヘルベルト・ローゼンドルファーは
「われわれの人生とはそもそも、まえがきにすぎない。本文は死だ」

ミヒャエル・エンデ本人は
「(八ページ半の文章の結びに……)あれこれ原則に配慮した結果、かくして残された道はただ一つ。つまりここで私は、深く遺憾の意を表明し、このまえがきにしてあとがきを撤回するのである」


あれやこれやが集まって、おおまじめに、これでもかってくらいにナンセンスな論を張っているのがすてきで、これら全部ひっくるめて、この本は、「L・キャロルの原詩による変奏」になっている。
本文よりまえがきやあとがきのほうがおもしろい、というのもありだし、と思わせてくれるあたり徹底的にナンセンスな本だと思う。