『動物園の麒麟』 ヨアヒム・リンゲルナッツ

 

 

たとえば『廃馬』という詩。
重荷をひき、血の汗を流した馬。脆弱な骨に鞭を打たれて斃れたのだ。
最後の節で、「その死骸からはしかし天馬が飛びだし……」とあり、ああ、と思う。でも、ほんとに好きなのはこのすぐあとで、「浮かれたおならをした」に、嬉しくて笑ってしまった。行け行け、天馬。


『郵便切手』はどきっとした。危うい言葉はなんにもない。どうってことない一連の言葉を、なんてエロティックなんだろうと、どきどきして読んでいる。そして、やっぱりなんてことない言葉でしょ、と思い直すと、どきどきしたことが恥ずかしくなる。
この詩に出てくるのは、郵便切手とお姫様だけ。悲恋の詩なのだ。そして、悲しいことは、おかしいことなのだ。


『脚』は、なんと、足を称える詩である。最後の「かわいそうな かわいそうな蛇!」がおかしい。やっぱり、悲しいことは、おかしいことなのだ。


『浴槽』
風呂桶でしょうよ。自分の事を何だと思っているのだろう。いやいや、わくわくしてくるじゃないの。「思い上がった浴槽」の話をもっともっと聞きたくなる。
そして、わたしだってそんな風呂桶でいたいものだ(いられるなら!)と思う。


『名誉心』は、死んで勲章もらうくらいなら「どこかの路地に僕の名前をつけてもらう」という。それも「ごく狭い曲がった路地」で、低い戸口の家があり、日陰と傾いだ天窓があり、売笑婦などがいる。そういう路地。
「そこへ僕は……」が素敵なのだ。
皮肉たっぷりだ、と思うけれど、そこに湛えられた悲しいような美しさに惹きつけられずにはいられない。


『香港』は、今日届いた「お前」からの憤慨した手紙に対する返信である。浮気について釈明(?)している様子だけれど、最後の一文に笑わされた。ずるいねえ。


そう、倒れて死んだ廃馬は(もう)辛くもみじめでもない。浴槽は、たぶん自分が「お風呂じゃないよ」というならもちろんお風呂であるはずない。
世界が傾いたような(傾いた世界が正常な位置に戻ったような)詩集。


最初に訳者による前書き的な「リンゲルナッツのこと」には、
「君は僕の詩を訳したいと言っていたそうだが、ぼくの詩は非常に難しい」
というリンゲルナッツの言葉が引用されていて、どきっとする。えーっ、そうなのか、そうだよねえ……
ちゃんと読めている自信はまったくなくて、「好きな詩集だよ」と大きな声で言うのは憚られる。だけど、やっぱり、小さな声で「好きだよ」と言いたい。