『謎のクイン氏』 アガサ・クリスティー

 

 

ちょっと不思議な十二篇のミステリだ。
現れるのは謎の人ハーリ・クイン氏。
細長い影、黒い髪。笑っているような泣いているような道化師(ハーリークイン)の顔を持った人。
どこからか現れて、いつのまにかその場にいる人。そして、気がついたらもういなくなっている人。


人間研究に興味があるというサタースウェイト氏は、控え目な紳士。人を見る目を持っている。
すでに解決済みの事件や、たまたま遭遇した出来事に対して、ひっかかりを感じることがある。
たとえば、あの人は本当に犯人だったのか。あの人の死はほんとうに自殺だったのか。失踪した人は今どこにいるのか。
サタースウェイト氏がそういう人だから、クイン氏は、氏の前に現れたのかもしれない。
ちょっとした疑問を、サタースウェイト氏は、クイン氏に話すのだ。いつも控え目で聞き役のサタースウェイト氏が、クイン氏の前では冗舌になる。
クイン氏の絶妙な一言二言の助言をもとに、これまで気にしなかったことが案外大事なことだったんじゃないか、と思えたり、別の見方があったことに気がついたりする。
クイン氏は最初から何もかも知っていたように見える。
クイン氏は、一体何ものなのだろう。


サタースウェイト氏は、事件の関係者たちと謎のクイン氏とをつなぐ橋のようなもの。もしかしたら、あの世とこの世とをつなぐ霊媒のようなもの?


トリックやアリバイが探偵によって劇的に暴かれることはない。ちょっと幻想的な雰囲気の物語が多くて、時には、ミステリ、というよりも、変わった幽霊譚のようだと思ったり、たまには、気の利いたおとぎ話のようだと思ったりした。
そして、一作一作を読み終えた時には、謎が解けた驚きよりも、そこに関わっていた人のその後が気になって(本当の気持ちに気がついたから)このまま読み終えたくないように思えてくる。
それだけれど、やっぱりちゃんとミステリなのだ。


私が、ことに好きなのは、『海からきた男』だ。
サタースウェイト氏はある晩、自殺しようとしている男を引き留める。
半年先に死ぬ運命の不幸な男は、この苦しみを半年先まで引き延ばすつもりはなかったのだが。
サタースウェイト氏は言う。
「その半年が、あなたの生涯で最も長く、かつ最も豊かな経験をする期間になるかもしれませんよ」
この言葉は相手の胸に響かない。だけど、実際そうなった。それはどういうことかといえば……