『雨あがりのメデジン』 アルフレッド・ゴメス=セルダ

雨あがりのメデジン (鈴木出版の海外児童文学 この地球を生きる子どもたち)

雨あがりのメデジン (鈴木出版の海外児童文学 この地球を生きる子どもたち)


著者による『日本の読者のみなさんへ』というメッセージの最後に、このように書かれている。

これは国境のない本です。特定の場所を舞台にしていますが、すべての読者の地平を広げる本、物理的な地平線だけではなく、社会や心理や感情、つまりはわたしたちの命の地平線を押し広げる本であるように願っています。
この本の向こう、はるか彼方に明るい地平線が見える。
・・・一冊の本が、一人の少年の未来を変えるきっかけになるかもしれない。
一人の少年が、自ら本の扉を開いた時、同時に、目に見えないもっと大きな扉を開いたはずだ。
物語に出てきた少年たちは、世界中、いたるところに名も姿も変えて隠れているにちがいない。


本を読んだことのない者が、読む気などない者が、何気なく開いたページの一行めを、二行目を読み切り、いつのまにかのめりこむように読み始める。だれに強制されたわけでもないのに。
本のページから光がさしてくるようだ。
慎ましやかに、ただそこに控えている小さな本は、身内にこんなに大きな力を秘めている。


十歳のカミーロはどろぼうになるしかない、と考えていた。すでに何度も盗んでいた。
物語は、カミーロがこうなるしかない事情を丁寧に描いていく。
彼の周囲には、子どもを食い物にするような大人か、自分を守ることにせいいっぱいで育て助けることにまで手のまわらない大人しかいなかった。
彼は、自分の住む町の外の世界を知らない。
荒んだようにみえるカミーロであるけれど、ところどころに、それだけではない、彼自身さえも戸惑うような「何か」が、ときどき顔を出す。
たとえば、バリオ(カミーロの住む貧しい地域)から出たがらない彼であるけれど、小高い場所から遠くを、バリオのさらに遠くの景色を見ることが好きである、ということ。
たとえば、メデジンの町の美しさを、さまざまな方向から描写する文章が、この本のあちこちに出てくるが、それらは、みなカミーロの見たまま、カミーロの感じたままの風景なのだ、ということ。
少年のなかに、はるかなものへの憧れや、美しいものに感動する心が、静かに息づいている。自分自身さえも気がつかない場所で。そこに、本は共鳴し、静かに作用する。きっと。


本は、どんなにすばらしいものを身内に内包していても、やっぱりそこにあるだけなのだ。
その本が、読まれるべき人のもとにいくためには、どうしても人の手が必要なのだ。
本の渡し手に、本と人との出会いの奇跡を無条件に信頼できる人が存在することに、心から感謝します。


コロンビアという国は、いろいろと問題を抱えているそうです。
本が、いつでもどこでもだれでも好きなだけ読める環境でもないそうです。
そんなコロンビアの第二の都市メデジンに図書館ができる。
場所は、小高い山の上で、その山の中腹には、ぐるっとバリオ(まずしげな家いえが肩をよせあうように立ち並ぶ地区)が取り囲んでいるのです。
なぜ、図書館の場所にここが選ばれたのかわからないけれど、カミーロのような少年たちが通いやすい場所であることにほっとしています。
この図書館が、カミーロをはじめとする子どもたちの居場所になることを、彼らに希望を運んでくれることを、願います。心から。