『パール街の少年たち』 モルナール・フェレンツ

パール街の少年たち

パール街の少年たち


パール街にある小さな原っぱが、少年たちの遊び場だった。
その原っぱを狙っているのが、植物園を遊び場にする「赤シャツ団」
赤シャツ団の団長アーチ・シェリに、バール街の少年たちの旗が奪われたことにより、宣戦布告がなされる。
パール街の少年たちは、彼らの大切な遊び場を死守すべく、彼らの団長ボカを大将として、闘う決意をする。
作戦も冒険も、そこに絡む個性豊かな少年たちの事情なども、わくわくしているうちに、どんどん盛り上がっていく。


最近読んだ『わんぱく天国』(佐藤さとる)を思いだし、大切な自分たちの遊び場をめぐって、遠いハンガリーと日本の子どもたちが繋がって居るような気がした。
学校を離れて、そこには、完全に子どもたち独自のルールに基づいた社会があった。
大人は決して足を踏み入れることのできない聖域。
妬み、不信や誤解、裏切り、自分の無力さなどに傷ついたりもしながら、一つの塊の中で大切な何かを見出そうと、ただ夢中になれる場所。
ただの遊び場ではない、他では得られない目に見えないもの(失うことも含めて)を受け止める場所であり、それを育てる場所でもあったように思う。
「原っぱ」ってそんな場所。
わたしの子どもの頃の「原っぱ」=地元の神社の境内が蘇ってきた。


そう思いながら、時々彼らの世界を、危なっかしく不安なものに感じてしまう。
それは、わたしがすでに子どもの世界を立ち去った大人であり(残念だけれど仕方がない)、純粋にこの物語にひたりきることができなくなってしまったのか、とも思う。
そして、それ以上に、現在、重たい暗雲のように頭の上にのしかかってくる不安が、軍隊や戦場などに絡んだ言葉に結びつき、いちいち過剰に反応してしまうせいなのだ。
子どもの戦争があまりにリアルで、わたしは、本物の軍隊や戦場を、そこに立つ成長した少年たちまでも、思い浮かべてしまうのだ。
子どもたちはあまりに純情だ。敵も味方も。正々堂々として、裏がない。
そんな彼らが、(本来きれいごとでは済まないはずの)本物の軍隊や戦争を模した階級や規則で自分たちを縛る。彼らは戦場にあこがれ、軍人にあこがれている。
子どもたちの遊び場への愛情、自分の仲間たちへの忠誠心などが、痛ましく思えてしかたがなかった。
……実際、好きなテーマなのだ。子どもたちのカタマリが大きく動きまわりながら、そのなかでの一人ひとりが光のように輝いているさまを読むのは。
それでも・・・。
自分のメンタルの弱さはいうまでもないのだけれど、社会に不安を感じ、行政への不信感が募るとき、物語の読み方やその喜びさえも翳るのだということをしみじみと感じてしまった。


彼らの戦いは、小さな故国(原っぱ)への「愛国心」に結びついている。
それを守るために大きな犠牲を払う。
しかし、そこまでして彼らが守ったものはなんだったのか・・・最後まで読んで「ああ」と思うのだ。
愛国心」というものがいかにとらえどころのないものかを、そして、何かに拠っての戦いがいかに虚しいことであるかを、苦くかみしめる。