学校の悲しみ

学校の悲しみ学校の悲しみ
ダニエル・ペナック
水林章 訳
みすず書房


フランス語で劣等生を表すことばはカニを意味するそうだ。
まっすぐ歩かず、横ばいしているだけ、という意味だそうです。


国語教師として25年のキャリアをもつ人気作家ダニエル・ペナックは、嘗て、手の施しようが無いくらいの劣等生だったそうです。
「あなたの書いていることが本当なら、その変わりようたるや、正真正銘の謎ですよ!」と食ってかかる人もいるだろうし、
それを売り物にしているのではないか、という人もいるだろう、と作者は書きます。
事実、有名人たちは、さまざまな公の場で、「自分の学業上の失敗をまるで自慢話のように語る」のが好きだという。
作者は言う。
「そんな変貌ぶりなど断じて信じてはいけないのだ」という。


わたしは、最初、ペナックが言うところの信じていはいけない「変貌ぶり」やら「英雄的劣等生」ぶりなどを読むことを期待しました。
現に彼は、三人の教師に救われた、と書いています。どんなカリスマ性を持った教師なのか、とわくわくしました。
ところが、期待に沿うような話はほとんどなし。(むしろ期待とは逆の方向で、期待以上の素晴らしい本だったのですが)


「劣等生」を教え諭すのに、精神論は意味がない、といいます。
どんなに感動的な言葉で劣等生を励まし、実際「劣等生」自身も感動し、感謝し、立ち直りを誓ったとしても、
いざ机に向かっても、具体的には何も得るものはない。


では、劣等生が劣等生でなくなるにはどうすればいいのか。
ペナックの言葉。

>文法の痛みは文法で治す。スペルの誤りは書き方の練習で治す。本を読むのが怖いという場合、薬は読書だ。読んでもわからないといいう恐怖心は、文章のなかにどっぷり浸ることによってしか治らない・・・
それじゃ、知りたいことは何にも無いのと同じだよ。
それができないから(やりたくないから)もっと感動的な方法を、もっと楽しい方法を、もっと楽な方法を期待していたのに。


だけど、考えてみれば、そんなインスタントに劣等生が優等生になれる方法があるなら、そしてそれを一般化することができるなら、
もうとっくにマニュアルになっていないか?
みんな救われているんじゃないか?
学問に王道なし。です。

>・・・物事を深く考えようとしない習慣は、今ここの教室で、今僕たちが実際にここに(y)いるこの授業時間中に、ぼくたちが格闘している対象だけを限定的にとらえようとする理性の応援を得て、はじめて治すことができる
ペナックを劣等感の地獄から救い出してくれた忘れられない三人の教師って、カリスマ性のある教師ではないそうです。
第一、ある先生に至っては、
(ペナックのほうでは、ものすごく恩を感じ、忘れられないと思っているのに)少年期のペナックの記憶がまるっきり無い、という。
では、何がちがうのだろう。
彼らは「自分の教えることを何としても伝えたいという情熱に憑かれていた」のだそうです。
この情熱が、すっかり自暴自棄になってしまった「劣等生」を地道な努力に導いた。
そして、その情熱は、どこからきているか、といえば・・・精神論ではない、といいながら、ここはもう思いっきり精神論なのです。
ただし、地に足がついた、血肉が一体となった精神論。ふわふわとした宙に浮いた言葉ではない言葉。日本語では漢字一字。


学校とはあくまでも聖なる学問の場所です。でも、その目標は目に見えないし、効果がすぐに現れるものではありません。
だからそこに悲しみがある。教師にも生徒にも親にも。
そこに、奇妙な進歩的文化人が出てきて、若さにおもねったり、あるいは生徒たちを消費社会へ誘導する。
目に見えない崇高な目標を目に見える卑近な目標に、学校教育をすり替えようとしているのです。
消費社会に貢献する人材を早くから囲い込もうとするかのよう。
でも、もっともげな言葉でメディアでしゃべると、なんだか正しいことを言われているような気がしてくる。
ペナックは、「ばあさん」と呼んで公然と批判する。痛烈にやりこめる。


以前、日本にも、一握りのエリートがいれば、残りは愚鈍なままでよし、とかなんとか言った輩がいたような。
またはそのときどきの、上に立つ人たちの了見や世論で、学校というものが、あっちにこっちに好き勝手に転がされている現実。
いったい「学校」って何なの。


数学が将来何の役にたつ? 歴史は、化学は、物理は、文学は?
私は、何のために学校教育を受けたのか、私は、何のために子どもを学校に出したのか。


ひとりひとりの感性を磨き、研ぎ澄ませるために、さまざまな方面からさまざまな道をつけ、
ひらくべきたくさんの扉を持つことができるようになりたい、なってほしい、ってことじゃないだろうか。
この世の神秘に気がつくように。
知れば知るほど不思議だと思うように。
それは豊かな人生を自分で築く底力を子どもたちに最低限保障してやることかもしれません。
そのための道が「学校教育」だとしたら、それはもう、その道を、こつこつと地道に歩いていくしかないのだ。
そして、その道の途上でしゃがみこんだり、背を向けたり、上手に違う道にすり替えようとする者がいたなら、
愛と情熱をもって、手を引っぱり、道はここだ、と呼び戻してくれる教師に出会えたら幸せだと思います。