『山行記』 南木佳士

 

作家と医師の二足の草鞋を履いた著者は、芥川賞受賞の翌年に心を病む。著者を救ったのは、五十歳で始めた山歩き、だった。


「書くという行為は、すくなくともわが身にとっては、いま生きてある「わたし」を確認する作業であり、夢を記す手段ではない」
と著者は言う。
また、
「書いているうちにじぶんの一部が、あるいは大部分が山に残ったままだと知ってしまったら、「わたし」分裂してしまっているのを確認したら、山をさまよっている「わたし」を言葉の担架に乗せ、静かに運び下ろさねばならない」
と言う。
そのようにして書かれた、山の記録――紀行文だ。


三十代から四十代の若者たちに混ざって、南アルプスの高峰を踏破する二つの記録は、道中のきつさが、そのまま、自分自身の「いま」のありようの記録になっている。
「きびしい自然と対峙する山ではひとの本性があらわになる。状況によって言葉を使い分け、したたかに生きのびてきた初老男の正体があばかれる」
ユーモアを交えながら、ほとんど自虐のように、自分のヘタレぶりや性格の弱さをさらけだせることに、逆に凄みを感じてしまう。


妻とともに何度も訪れた浅間山の思い出は、夫婦の来し方の振り返りであり、互いの弱みを認め合う記録でもある。支え合いであり、静かなバトルの記録でもあり、伴侶でいることは、当然だけれど容易じゃないし、結構複雑だ。


山に行くときは、ひとりではない。人に混ざり合い、人を鏡にしながら自分と出会う記録かもしれない、と思う。
同行者への思いなど、あけすけに書いていても、あとに引かないのは、連れたちと面と向き合うのではなくて、山という同じ方向に顔を向けているせいだろうか。


それにしても。
「夕焼けが刻々と色を変える時間帯に歩いていると、家並みが途切れ、いきなり空が広くなり、右手に浅間山、左斜め前方に八ヶ岳の峰々が見渡せる」
こんな風景を身体でも心でも知っているって、いいなあ。