『夢の10セント銀貨』 ジャック・フィニイ

 

私たちが暮らすこの世界は、少しずつ異なりながら無数に存在するという。多元世界という考え方なのだ。
「この多元世界は、それぞれ大幅に異なっていたり、最も平凡な点でのみ異なっていたりする。きみも、この世界に存在しているのと同じように、他の世界にも存在していて、そこでは、ドラッグストアで茶色のペンキではなく、緑色のペンキを買っているかもしれない……」


ベンは上司にののしられるばかりの職場には嫌気がさしていたし、家では妻への愛情も冷めてしまっていた。
つくづく自分は敗残者だと感じている。
そんなある日、ポケットの中から出てきた見慣れないダイム(10セント硬貨)で新聞を買ったとき、多元世界のひとつに紛れ込んでいることに気がつく。
自分の職場があるはずのビルは、この世界にはなかった。
ここでは、彼はある会社の代表であり、妻は思い出のなかの初恋の美人なのだ。自分の人生がにわかに輝きだす。
だけど、彼は元の世界での妻に会ってしまう。彼女は、彼のことを当然、何も知らなかった。


10セント硬貨が別の世界への切符になる。あっちの世界、こっちの世界。
こちらでは申し分ない生活が、あちらでは惨めなどん底の生活が、彼を待ち受けている。
考えてみれば、彼が「敗残者」と思っていた元の世界での生活は、それほど悪くなかったのでは? 考え方ひとつでもっと幸せになれたのに、と思わなくもない。


ベンが行く先々の世界では、もともとの妻を失っているのだ。(会ったこともない、というのも含めて)
ベンは妻を取り戻そうとする。
彼の理屈や行動は、調子がいいにもほどがあるだろうと、正直、腹が立つ。
だけど、彼の真意に気がつくと、ちょっとほろっとしてしまう。
自分は誰よりも彼女の事をよく知っていたじゃないか。そして、取り戻したい、というよりもただ、彼女に不幸になってほしくないのだ。


ベンは、多元的な旅を重ねる。
だんだん大胆になっていく次元を跨いでの行動の意味がわかったときには、拍手したくなった。笑いたくなった。こんなこと、よく考えつくねえ。見事だよねえ。でも、いいのかなあ。