『をんごく』 北沢陶

 

古瀬統一郎の妻倭子は、あまりに早くあっけなく亡くなった。だから、彼は、巫女に口寄せを依頼した。能力のある巫女だったが、この降霊はうまくいかなかった。巫女は、倭子の死に腑に落ちないものを感じる。
その頃から、統一郎のまわりに、ある気配がたち始める。それは、倭子の霊の匂やかな気配と、何か禍々しいものの気配と。


この世をさ迷う倭子の霊と、そもそもの彼女の死の謎とをめぐって、ここに奇妙な三人が集まっている。
もともと大店のぼんぼんであるせいか、高等遊民的な雰囲気を持った統一郎。
巫女である密子は世間づれして、いささかがめつい。
往生できない霊を貪り食う、一種の化け物、通称エリマキ。
胡散臭い連中だが、実は案外お人よしで、情に脆い。
乗りかかった船は、自分が可愛ければさっさと降りてしまえばよいのだ。そうすれば安全だっただろうに。ほうっておけない人たちの情が、三人を結び付けている。
彼らはその素性よりも、その心根のために、社会のアウトローになってしまっているのではないか、と思うほどだ。
三人の弾む会話がなんとも魅力的で(でも当人たちは全く意識していなくて)、仲間に入れたらさぞ楽しいだろう(と言ったら当人たちはさぞうんざりするだろう)、と思う。


「おんごくやさしや やさしやおんごく なはよいよい……」
おんごくは遠国。物語の中では、ずっとひらがなで「おんごく」。でもタイトルはなぜ「をんごく」?
もしや。
「を」は、五十音表の列の一番「うしろ」の文字だと思いたって、ぞっとした。
この物語、ジャンルでいったらホラーになるのだろうが、おどろおどろしいというより、むしろ、幻想的で美しい物語、と思った。哀しく愛おしい。端正な文章もよかった。


これは、別れを受け入れる物語、その過程を辿る物語だと思うのだ。
別れがたい思いは、ときに執着に繋がると思う。寂しいけれど、辛いけれど執着を手放していく。
それは、死別した夫婦の間だけではなく、この物語のなかで集った人たちのことでもある、と思う。


物語のなかに、「扇の要をはずす」という言葉があった。扇が扇としてまとまるのは、要があるからこそ。その要を外すのは、きっとその先にある善きことを信じることでもある、祈ることでもある、と思う。ゆくものにとっても、のこるものにとっても。