『大司教に死来る』 ウィラ・ギャザー

 

1848年、ニューメキシコに、二人の若い神父が赴任してくる。ラトゥール司教とヴァイヨン副司教だ。
当時、この地方は、インディアンとメキシコ人の土地だった。1500年に、フランシスコ会の神父によってキリスト教化されていたが、ほぼ300年近くもほったらかしで、貧しさと頑迷さ、そして古い独自の呪いや信仰が混然とした独特の土地だった。
この地の神父たちのなかには、堕落して、欲と快楽にふける者たちもあった。
二人の神父は、サンタフェの司祭館を拠点に、長い時間をかけて、何度この地を行き来したことだろう。驢馬で、徒歩で。
素朴な友情や、思慕、心づくしの歓待がある一方で、(ほとんど偽と言いたい)聖職者たちの嘲りや脅しに出会ったり、一夜の宿を求めた所が追いはぎの家だったり……。
連作短編のような九つの章立てを経て、二人は、土地の人々の複雑なありようを理解し、受容する。一方で、人びとからの信頼を得て、逆に受容されてもいく。


沈思黙考の司教ラトゥールは、人びとの心の拠り所として教会を盤石なものにしようとする。
行動的な副司教ヴァイヨンは、丸腰で人々の中に入っていく。まるで彼らの心の中に目に見えぬ教会をたてるかのように。
神学校時代からの盟友である二人の会話は、神に仕える人、というよりも、茶目っ気のある若者らしく、ほほえましくもあった。


この地に生きる身分も暮らし向きも多様な人々の一人一人の生きざまを描いた物語でもある。
忘れられないエピソードは、あるインディアンが、荒野の一夜の宿りを離れるとき、彼らがここにいたという痕跡を注意深く消す、ということ。燃えさしや食べ残したものを埋め、積んた石をみな崩して。
どのような景色の中でも、自己を浮き出させようとする白人の文化を引き合いにして、ラトゥールは考える。
「インディアンのやり方は、水中の魚のように、空の小鳥のように、なに一つ乱さず、あとかたもなく土地を通りぬけ、すぎ去り、別れを告げるのだろう」
その清々しさよ。


晩年の神父が古い友に語る「未来を知ろうとするものじゃない」という言葉も心に残る。


次々に容易ならぬ出来事が起こるが、読んでいる私は何と穏やかな気持ちで安らいでいたことか。
起った出来事の大きさや深刻さよりも、その都度の神父たちの心情のほうが静かなドラマだと感じるからかもしれない。
また、この物語が、この世を去っていく人の満ち足りた思い出の物語であるからかもしれない。