『ガザに地下鉄が走る日』 岡真理

 

2018年の本。


難民は、ノーマン(何者でもない者たち。人間が何者かであることによって付随する一切の諸権利を持たない者たち)だ。
人権という言葉は、生まれがらの人間の権利を指すのではなく、その場所の市民や国民である者たちの特権であることを指す。難民には、人権はないのだ。
難民キャンプは、ノーマンズランドであり、強制収容所だ。「そこにおいて人間が、人間であることの一切の意味を剥ぎとられ、ただの数字に、人間ならざる者に還元される場所」だ。


イスラエルパレスチナに1948年に建国された。それが、イスラエルによる民族浄化の始まりだった。
占領地のパレスチナ人を恐怖に陥れ、その「自発的な」集団避難を促し、民族浄化を容易にすることは、イスラエルの戦略である。
何十年もの占領に加えて、絶望が蔓延する封鎖のガザでは、人びとはもはやノーマンでさえないのだ。封鎖のなかで生きることは、「生きながらの死」だから。


ホロコーストを経験したユダヤ人が、なぜ同じようなことをパレスチナ人に?」……不思議に思っていたが。
「この惑星に暮らす他の人々と異なっているわけではない」
「ほぼすべての人間集団に対して、他の人間集団を非人間化することを教えることができる」
歴史家イラン・パぺの言葉だ。
ルワンダで、カンボジアで、ごく普通の人たちがジェノサイドにとりこまれていったことも振り返り、私たち誰もが虐殺者の側に簡単に立てるのだ、ということを得心してしまう。(そもそも、こんなときに虐殺者を支持する国は……その国民である私は……)


平和とは何だろう。戦争がない状態が、平和なのか。
「真の平和とは、直接的暴力に加え、構造的暴力のない状態」という言葉に従えば、「生きながらの死」という深い絶望の中にあるパレスチナに、平和なときなんかなかったのだ。


南アフリカアパルトヘイトにも触れる。国際社会は長年にわたり、アパルトヘイトを糾弾し続けた。その国際社会は、今、イスラエルに対して、何をしているのか。
南アフリカの元活動家は言う。パレスチナにおけるイスラエルの占領の過酷さと比べれば、(南アフリカの非人間的なアパルトヘイトは)「日曜日のピクニックのようなものだった」と。それなのに。
「この国のモラルも、世界のモラルも、数十年前に比べて明らかに退廃している」との言葉が辛い。


「地獄とは人が苦しんでいる場所ではない。
 人の苦しみを誰も見ようとしない場所のことだ」
思想家マンスール・アル=バッラージュの言葉だそうだ。


現状ではあり得ない「ガザに地下鉄が走る日」という言葉には、どん底からの切なる希望と祈りがこめられている。