『犬のかたちをしているもの』 高瀬準子

 

薫は大病で卵巣の手術をしたため、子どもを産むことが困難な状態だ。同棲中の郁也は、身体の関係がなくなっても、薫のことを深く愛している。これからも離れることはないだろう。
ところが、郁也の子どもを身ごもった女性が現れる。彼女は、ビジネスとして郁也とそういう関係を持ったが、子どもができたのは間違い、事故だったのだ、という。ついては、生まれてくる子どもを郁也と薫の子として、もらってくれないか、ともちかけるのだが……。


なんだろう、このクレイジーな提案は。かなり動揺している薫であるが、その度合いがわりとあっさりしているように感じる。不思議な人だ。
郁也との関係についても、中途半端に思える。
女性のお腹のなかでずんずん子どもは育っている。
もっといろいろと焦ってもいいと思うのに、糾すべきとも思うのに、見た感じ、まったくこの件について具体的な動きがなくて、抽象的なことをぽつぽつと考えている。
女の身体のこと、行為とその結果について。そして愛について。生まれてくるこども。それから、死を待って眠り続ける祖母のこと。


彼女は「愛」というものがよくわからない。死んでしまった犬のロクジロウを思いながら、ロクジロウへの思い(ただ相手の幸せだけを願うこと)が、彼女にとって「愛」だという。
そうなのだろうか。人への愛と犬への愛。わたしも考えてしまう。
犬への愛には(そして犬からの愛は)今・現在しかない。何も考えずただ相手だけを見ていればいいのだと思う。だけど、人なら……現在とその先の未来も見る。それは愛とは別のものかもしれないけれど。責任だろうか。
身体の関係についても。その先(未来)の責任は最初から負っているはずなのだ。
「これが、子どもを作るための行為だって、忘れてたんですよね」


生まれてくる命、死んで行く命。当人には何もできない。それを左右できる立場の人々が、なんだか中途半端で(中途半端に優しくて)苛立つ。


女の身体のなかから、当人の意志関係なくあふれてくる血が、あたりまえに経験してきたことなのに、なんとも気味悪い。
だけど、どこまでがあたりまえ? 気味が悪いと感じるのはなぜ?
「子宮から血が吐き出されるたび、結局はわたしたちのことだ、と思う。わたしたち女のことだ」


要領のいい悪魔がどこか見えないところで糸を引いているんじゃないだろうか。
笑えない喜劇みたい。