『ルクレツィアの肖像』 マギー・オファーレル

 

「   歴史的背景
 一五六〇年、十五歳のルクレツィア・ディ・コジモ・デ・メディチは、フェラーラ公アルフォンソ二世デステとの結婚生活を始めるべく、フィレンツェをあとにした。
 一年も経たないうちに、彼女は死ぬことになる。
 死因は公式には「発疹チフス」とされたが、夫に殺されたとの噂があった」


最初の場面は、公爵夫妻の夕べの食卓。夫は穏やかで優しい。だけど、妻ルクレツィアは、自分は今夜夫に殺されると考えている。
ゆっくりと進む時間は穏やかなのか不穏なのか。その流れの長い合間には、公爵夫人ルクレツィアの生い立ちの物語が挟まれる。
メディチ家の公女として生まれた彼女は、なぜ15歳(まだ子ども部屋を出たばかり!)で結婚することになったのか。そして、結婚後一年も経たずに、夫に殺されそうになっているのか。


七歳の頃、彼女は父の城の地下動物園で虎と対面する。彼女は、虎の悲しみを、故郷から切り離された衝撃や恐怖を感じる。
「……その下生えのなかの雌虎だけが自由に使える魅力的な緑のトンネルが恋しくてたまらない辛さ、自分を閉じ込めている鉄格子に感じる、焼け付くような心の痛み」を感じる。
「ずっとここにいなければならないの? 故郷へはもうけっして帰れないの?」
この虎はルクレツィア自身だ。


宮殿の深窓で育った少女が、痛めつけられる人に強く心を寄せるのは、彼らの中に閉じ込めらた虎をみているから、そこに自分自身を重ねてしまうからだろう、と思う。
私はルクレツィアという少女がどんどん好きになる。恋もしたことのない野生的な少女、簡単に掌の上で転がされない少女が。行動力が、なぜと考えずにいられない聡明さが。
別の舞台の上にこの子が立てたなら、もっと能力に見合った場所にいられたなら、と想像してしまう。


領主の妻は世継ぎを産むことを要求される。できなければ(夫以外の)「誰か」が責任を取らなければならないのだと。そんな馬鹿な。
檻に閉じ込められた虎は、二度と密林に戻ることはできないのだろうか。私は、嘗ての七歳の少女のように、檻の中の虎をじっと見つめているような気持ちになっている。
動物園の虎の最期も思い出しながら、でも、見た目とは違う本当があるのでは、と思ったりした。


ラストに向かって息を詰めるように読み、ほおっと息をついている。
だけど、一つだけ納得できない、あれ。あれに向けて蜘蛛の巣みたいな糸を張り巡らした作者を恨めしく思っている。