『無実はさいなむ』 アガサ・クリスティー

 

資産家のアージル夫人が殺害され、容疑者として養子(五人の養子のうちの一人)ジャッコが逮捕される。ジャッコはアリバイを主張するが立証できず有罪となり、獄中で亡くなる。
その二年後、突然ジャッコの罪が晴れたのだ。
亡くなったジャッコは戻ってこないけれど、汚名が濯がれたことで家族は少しほっとするだろうと思うが、そうではなかった。
「問題は、有罪になったひとじゃないんです。無罪です」と家族の一人は言う。
状況から推して、犯人は家族の中の誰かなのだ。それがわからない、ということは、つまり家族の誰もが有罪でありうるということだ。
そうして、家族たち、それからその伴侶や恋人まで含めての、静かな腹の探り合いが始まるのだ。


愛情深い人たちだった。でも、その愛情が重い。ちょっとおかしいのかも。親子、夫婦、恋人たち……愛される側にしてみたら、逃げ出したくなるような。


それなりに仲良く暮らしていた人たち、信頼していたはずの人たちの別の顔が見えてきたり、自分自身の気持ちに自信が持てなくなってきたり(思えば、みんな何かしら病的な暗いものを持っている)
こつこつと築き上げてきたものが、今、一気に崩れ始めている気がしたり……
疑いと罪の意識とが、ぐるぐる、ぐるぐる。


ヨブ記』のなかに「潔白なものの不幸」という言葉があるそうだ。無実はさいなむ。ほんとうにそうだ。
犯人が分かったときにはもちろん驚いたし、事件の解決にほっとしたけれど、静かな水面に、ただ一滴インクを垂らしただけで、たちまち濁っていく様子、思った以上に濁っていく様子が怖ろしかった。
一方で、そのようにして、断ち切られたもの、壊れたものに、ほっとしてもいる。壊れるべきものと繋がるべきものが、露わになったのはきっといいことだ。