『カメラにうつらなかった真実 3人の写真家が見た日系人収容所』 エリザベス・パートリッジ

 

1941年12月8日、日本軍による真珠湾爆撃を受けて、アメリカ政府は日本に対して宣戦布告した。
1942年2月19日、西海岸に住む12万人以上の日系人を退去させる大統領令が発令された。
多くの民間人が裁判を経ずに、鉄条網に囲まれ、銃を向けられた、劣悪な条件の施設に閉じ込められたのだ。移送、転住センターという、わりとソフトな言葉で呼ばれていたが、強制退去、そして強制収容所への収監である。


この日系人収容所を、記録のために(多くは政府の要請により)撮影した三人のカメラマンたちがいる。ドロシア・ラング、宮武東洋、アンセル・アダムス
強制収容所が人道的に正しいやり方で行われていることを証明する」ための写真である。
ここに載っている写真は、公表された写真と、公表されなかった写真である。おもに公表されなかった方に、写真家たちの真意がこもっている。あるいは、写真にさえ撮れなかった、ということに汲み取るべきものがある。
さらに、公表された写真をよく見れば、公的な目的の向こうに見える別の思惑や願いが見て取れるのだ。


胸を打つのは、ドロシア・ラングによって撮られたポートレート。なんのこともない、幼い孫を肩車した穏やかな顔の農夫の写真である。でも、「なぜ米国政府は、老人と幼児まで収容所に閉じ込めたのか」「本当にこの人たちは、国家の安全をおびやかすのか」という問いかけとともに、「これがわたしたちのしたことです」という声が聞こえてくる。


マンザナー収容所に送られた宮武東洋は隠して持ち込んだカメラのレンズと、収容所内外の人種を越えた友人たちの協力により、公的には決して撮ることのできなかった収容所の現実をカメラに収めていく。
みつかれば、関係者一同、どうなるかわからないなかで。
そのなかで、もっとも心に残るのは、「それ」が写った写真がないこと。収容所生活を撮るということは、理不尽なことだらけを撮ることだったが、それでも、とても写せなかった出来事があったのだ。


きちんとした国の法を無視して、自国の国民の権利を奪い去ることを、異常とは思えなくなるのが戦争なのか。
収容所で生き延びた人々への敬意と、それから、この集団ヒステリーのさなかに、それは間違っている、と声を上げ続けたひとや、記録を残そうと努めた人々への敬意をこめて、私たちはいま、どういうことを警戒しなければならないか、考えなくては。