『月が昇らなかった夜に』 ダイ・シージエ

 

その仏典(巻物)は、死語となった古代語で書かれ、歴代の中国皇帝が所有していたが、ラストエンペラー溥儀によって、引き裂かれ、砂漠に遺棄されたという。これは、1970年代末の「変わりゆく中国を舞台に描いた仏教版『聖杯伝説』」とのことで、そのつもりで読み始めた。


しかし……いったい、その二つに裂けた巻物は、いつ出てくるのか。
まずは、西太后から始まる、怒涛のような中国近代史の半分は(たぶん)眉唾だ。
絢爛豪華な虚実ないまぜの大波小波に揺すられる。
翻弄される。


語り手の「私」は、言語学専攻の学生で、フランスからの留学生である。
文化大革命後の混乱さめやらぬ北京で、彼女が出会ったのは八百屋の青年トゥムシュク。
トゥムシュクは、載灃(西太后の大甥)の曾孫である、とさらりと書かれている。清朝最後の不運な親王の末裔が八百屋の店番をしている。彼の名前トゥムシュクは、幻の王国の名前であり、消えた言語の名前でもある。
「私」とトゥムシュクを結びつけたのは、三つの言語(中国語、チベット語、トゥムシュク語)で、この物語は、巻物という聖杯探しの遍歴であるとともに、言語学専攻の「私」の、一風変わった一途な恋の遍歴でもある。


大量の言葉の間に隠れた宝を探す遍歴だ。散々惑わされ、ふりまわされ、その合間にちょこっとあらわれる言葉に「あれ」と思ったり、「ああ、そんな出会いが! 繋がりが!」と愕然としたり、ほっとため息をついたりする瞬間瞬間が、巻物より大きな宝だった。
言葉の海を旅することは、生きた人たちの思いをたどる旅だった。
引き裂かれた幻の仏典は、ある。あった。でも、それはどうでもよくなってしまう。