『星に仄めかされて』 多和田葉子

 

『地球にちりばめられて』から始まる三部作の第二部である。
留学中に母国が消えてしまったというHirukoの母語を知る人を探す旅を中心に、六人の仲間が集まる。けれども、第一部の最後にやっと出会う事ができたSusanooは、言葉を話さない。何か問題を抱えているようだ。
Susanooは、治療のため、コペンハーゲンの病院にベルマー医師を訪ねる。


『地球にちりばめられて』同様、ひとりひとりの語り手が順繰りに語りてになり、自分の思いをからめながら、物語を繋いでいく。
『地球に……』の中心にはHirukoがいたが、こちら『星に仄めかされて』の中心はSusanooで、彼を巡る人々が、それぞれの方法で、それぞれらしく、Susanooに向かって旅をする。


それは、とてもゆっくりの旅で、読んでいると、ときどき道に迷いそうになる。(移動しているにもかかわらず)動きが少ないので、物語そのものが、何かのおまけみたいなものではないか、とも思う。
前に進む物語ではないのかもしれない。ひとりひとりのモノローグを通して、それぞれの奥へ奥へと潜っていくことが目的なのかな、とも感じた。
それぞれのモノローグは、「言葉」に関わるが、言葉について語ることが、語り手自身について語ることになっている。
それぞれの「言葉」との関わり方が、その人らしさ(性格、生い立ち、目的)をあらわしている感じだ。
言葉に迷うことや言葉を失う事、時には言葉を人を攻撃する道具にする事は、自分自身の生きづらさ、苦しさの顕れでもあり、自分自身を見失うことにもつながるのだろうか、と読みながら考えていた。


ゆっくりの物語ではあるが、ときには、突然、飛ぶ。まるで、小さな物語の島から、隣の島へ瞬間移動するような感じだ。驚くけれど、すんなり受け入れられるのは、移動手段が「言葉」であり、移動場所(出発点も目標地点も)が人だからだろうか。


第一部のときにも思ったが、やはり、この物語は、神話っぽい。
世界のあちらこちらで、とても壊れるとは思えないような、形あるものたちが、壊れ始めている。
壊れて欠片になって、飛び散っていく。このうえなく自由で柔らかなイメージだ。
それらの欠片があつまって、別の形になろうとしているのだろうか。
それは温かな血をもった新しい生き物のイメージだ。