『幼年期の終わり』 クラーク

 

ある時、突然、宇宙から大型の宇宙船団が地球に飛来し、ニューヨークをはじめとする世界中の主要都市の上空に、まるで大きな雲のように停止した。
宇宙船は、そのままの状態で、地球を統治し始めるが、それは人類にとって幸せなことだった、と徐々にわかってくる。
地球人の何十倍、何百倍の知力を持つ、優しい統治者のもとで、地球上のあらゆる戦争、あらゆる差別が終わる。無知、病気、貧困、恐怖は、過去のものとなった。
戦争や戦争の準備・研究、軍事防衛にかかる費用がどんなに巨大であるか思い知らされる。それらをやめるだけで、こんなにも地球も人類も豊かになるのか。
地上には、真の平和と幸福がもたらされたのだ。
地球人は、この宇宙人たちを、神ほどの敬意を込めてオーバーロードと呼んだ。


オーバーロードは長いあいだ、地球人の前に姿を見せなかった。やがて、その驚異の姿をみせたあとでも、自分たちがどこからやってきたかも、真の目的も、一切語らなかった。
読んでいると、この親切な神々に不信感が募ってくる。神々によってもたらされた地球のユートピアは不気味だと感じた。ほんとうは、彼らは何をしたかったのだろうか……。


第一部、第二部、そして第三部、と読み進めるうちに、謎でいっぱいだった物語が、こちらが想像もしなかった方向に、少しずつ形をなしてくる。
それは、哲学的な。宗教的な。
いったいどう読んだらよいのだろう、こんなふうに読んでいいものだろうか、と読み終えても、考えてしまう。


一人ひとりの登場人物それぞれに感情移入しながら読んでいたはずなのに、最後にはそれさえなくなる。私が見ているのは大きなカタマリとしての種族、だ。
幼年期の終わり。誰(なに)の幼年期が終わるというのか。終わるとどうなるのか……。茫然とするような暗闇が目のまえに広がる、あるいは、その暗闇の底に落ちていくような思いを味わうのだけれど、そこから立ち上ってくるのは、一つの、姿を変えた希望なのだろう。希望、といっていいならば。……ほんとは泣きたい。


一方、どうあがいても希望など持ちようもない袋小路で、ただひたすらに生きていくしかない者たちの、深い諦感、究極の孤独が、心に迫る。
希望なんてないはずのここに、あるいは「幼年期の終わり」に目指すものと逆行するもののなかに、希望があってほしい。(第二部で、オーバーロードによって地球にもたらされたユートピアが、ユートピアであればあるほどに、今まで気がつかなかった欠陥が浮き彫りになってきたこと、それは取り返しのつかない喪失ではないかと思えてきたこと、などと繋がる)
諦め。孤独。悲しみ。それらは、私が理解できるもの、共感できるもの、「心」とよびたいものだ。この闇のなか、片隅に、消えかけているとはいえ、それらがあることが救いのように感じる。
作者に与えられた彼らの姿が、もう驚異ではない。悲しく慕わしく思えてくる。