『家族のあしあと』 椎名誠

 

椎名誠さんの少年時代の物語。
世田谷の五百坪もある家から引っ越して、酒々井の仮住まいを経て、幕張で小学生時代を過ごした。
兄弟は多くて、叔父や叔母がときどき一緒に暮らす大家族だった。家族にはいろいろとヒミツの事情があるようだが、子どもにはわからないことばかり。わからないままに、自分の身の回りのすべてを受け入れて大きくなった。
椎名家だけが特別、ということでもないのだろう。自分の子ども時代の事を振り返っても、あれはいったいどういうことだったのだろう、あの人はいったいどういう人だったのだろう、と思える不思議な場面が、そこだけ鮮明に浮かび上がることがあるが、もう誰にも確認のしようもない。子どもは、ありのままを受け入れるしかないけれど、だからと言って、何も見えていないわけでもないのだ。


坊主頭の地元っ子たちのまんなかにほうりこまれた坊ちゃん刈りの少年は、あっというまにまわりになじみ、一人前の悪ガキに成長していく。
一歩間違えたら大事故につながりかねない冒険や、犯罪の手助けになりそうなことも、子どもなりの人情や、見境のないワクワクとともに、おおらかで眩しい絵になっている。読んでいると、自分の子どもの頃の思い出(ことに親には言えないこと)が思い出されて懐かしい。


子ども同士のわちゃわちゃした日々の背景には、家族の、どちらかと言えば、暗さや重さをじっとりと含んだ生活が、ある。
おとうさんは、寝たり起きたりを繰り返しながら弱っていき、著者が小学生のうちに亡くなっていることが最も大きいけれど、むしろ、家族に射す何かの気配からそこはかとなく感じること。
たとえば、元来明るく社交的なおかあさんが、ひとりで「食堂のテーブルの前で何もしないで座っていたりする」ところを、見てしまったときの「ちょっと場違いな気配のところに飛びこんでしまったな」という、そういう気まずさなど。


家族全員が笑い、あれやこれやを話しながらご飯を食べる場面のことを「人生のなかでもかなり上等な至福の時間」と書いている。「そういう時間は一生のうちにあまりないのだ」ということが何度も書かれている。家族の時間にはいろいろな面があるから、その一角にあるいいところは、思い出のなかでいつまでも燦然と輝くのかもしれない。
わずかな時間だったかもしれないけれど、「上等な至福の」と感じられる時間を子ども時代に家族とともに持てたことは、きっと生涯の宝。