『そらのことばが降ってくる:保健室の俳句会』 高柳克弘

 

中学二年生のソラは、一年生のころに、一人のクラスメイトの悪意ある言葉がきっかけで、クラスにいることができなくなってしまい、保健室登校を余儀なくされていた。
二年生になってクラス替えがあったが、状況は好転しなかった。一か月頑張ったが、それが限度で、保健室に戻る。
久しぶりの保健室には、同じく二年生のハセオがいて、句会をやらないか、と誘われる。最初は苦痛だったハセオの誘いに乗ったのは、言葉についての気づきのせいだろうか。
ソラは、嘗て、ひとつの言葉に突き刺さされた。きたない言葉だった。だけど、同じ言葉だって、輝くときがあるかもしれないのだ。ハセオは自分の力で輝かせようとしていた。
ハセオとソラと(それから養護の先生と)で始めた句会に、弓道部のエースで、俳句経験者でもあるユミが加わる。


それぞれらしく自由に詠まれる句は、仲間たちに鑑賞され、さらに磨かれていく。解説されないと、なぜ元の句がダメで後の句のほうがよいのか、わからない私だけれど、だんだんと俳句に魅せられていくソラが語る言葉には、すっと惹きつけられていく。
俳句は余白が大きいから、いろいろなことが読み取れる反面、作者のこめた思いを読み取れないことが多々ある。それでいいのだと。それがいいのだと。
「伝わるかもしれないけど、伝わらないかもしれない。それくらいの感触が、ちょうど心地よい」と、ソラはいう。私は、このソラの言葉が心地よい。


状況はまるっきり違うものの、人間関係で苦しんでいたのは、ソラだけではなかった。三人とも、言葉にできない悩みを抱え、重たい気持ちで日々を過ごしていたのだ。
そういうとき、真摯に言葉にむきあおうとする試みが、いったい何を起こしたのか。「伝わるかもしれないけど、伝わらないかもしれない……」という前提(?)のもとに選ばれ、詠われる言葉たちの間には、気持ちの良い風が通い、なにかを浄化していくようなのだ。


俳句は挨拶でもあるという。
だれかが向こうで手を振っている。わたしもこちらから手を振りかえす。
もしもこの出会いの意味をつきつめて考えよう、なんて思ったら、この小さな出会いが重たくなってしまうかもしれないし、逆に軽くなるのかもしれない。
そういうことは、そこに置いておき、「伝わるかもしれないけど、伝わらないかもしれない。それくらいの感触が、ちょうど心地よい」と、まずは思えたらいいなと、今は手を振る。(そこからの話があるかもしれない。ないならそれもよしだね)


タイトルの「そらのことばが降ってくる」、その意味は(言葉に隠された、伝わらないかもしれなかった思いも)一番最後に、知らされる。なんとも気持ちの良い場面だった。