『天に焦がれて』 パオロ・ジョルダーノ

 

南イタリア、スペリツィアーノの農園マッセリアには、三人の少年ニコラ、ベルン、トンマーゾがいた。当主チェーザレは、異端といわれる独特の信仰心のもと、三人(ニコラは実子。ベルンとトンマーゾは里子)に、深い愛情を掛けながらも、ちょっと極端な環境で育てたのだった。
語り手テレーザは、マッセリアと背中合わせに隣り合った祖母の家で、毎夏を過ごしていた。あるとき、三人と近づきになり――というよりも、ベルンに恋をして、マッセリアに入り浸るようになる。


三部に分れた物語は、テレーザのベルンへの思いを中心に、三つの時代(?)について語られる。
衝撃的な二つの事件が、ベルンに焦がれ続けるテレーザの日々を、三つの部に分けている。ともいえると思う。
第一部は、夏ごとにマッセリアに入り浸っていた少女時代。
第二部。売り家になっていた無人のマッセリアを占拠した六人の青年たちのひとりとなり(そこにベルンがいたからだけれど)共同生活した二十代のころ。
そして、第三部。一人で、さまざまな「なぜ」を胸に抱いて、さがしものをする、その後。三十代前半まで。


語り手テレーザはベルンに焦がれ続ける。でも、彼については、見えないところが多すぎる。
テレーザが見たまま、体験したままに語る農園の日々は、どちらかと言えば静かで平和だ。それでも大きく小さく波風がたつし、ときには不穏な気配が漂うこともあるが、それがいったい何故なのか(そもそも、そんなに大きく気に病むようなことなのか)わからない。
語り手はもうひとり(二人? 三人かな)。テレーザが後に「なぜ」と聞きだした答えとして、その人が見た、体験した物語が、別の面からテレーザの空白を埋めていく。それは、ただ空白を埋める、というよりも、見えていると思っていた景色を塗り替えるようであり、塗り替えると同時に、物語が厚く複雑になっていくことを感じている。
ああ、だからだったのか、と思ったり、むしろ、ますますわからなくなったり。


だけど、最後まで読んで実際に感じるのは
「他人の人生ってね、いつまで経ってもわからないことだらけなの」
ということだ。
一周まわって、そこか……。
分らないのだ、語れば語るほど。物語が何回塗り替えられても、幾層にも厚みを増しても、わからない、という思いを強くするばかり。だけど、そうした「わからない」のるつぼの中をぐるぐるまわっているうちに、台風の目のように、澄んだものが開けてくるのを感じる。
テレーザは言うのだ。「わたしは彼の事をよく知っている」
知るべきことは、最初に会ったあのときの彼の目のなかにあったこと。
それ以外はどんなに大きな、衝撃的な、出来事があっても、天地がひっくり返ったとしても、たぶん、さほど重要なことではない、ということか。
テレーザの境地がちょっと羨ましくもなる。


テレーザの激しさに翻弄され続ける読書だったが、それよりも、いまは、天から降りてくる緑の光が心に広がっていくのを心地よく感じている。