『千個の青』 チョン・ソンラン

 

いったい、どこから書いたらいいのだろう。
もり沢山のテーマがあり、ひとつひとつのテーマごとにそれぞれの物語があってもおかしくないくらい多彩なのに、ひとつの物語のなかにまとまって、喧嘩することがない。というよりも、まったく別個のテーマ、と思っていたものが、実は大きなパイプで繋がっていたことに気づかされるのだ。繋いでいるのは、人ならぬ者たちだ。


学習能力を持ったロボット(ヒューマノイド)が、細やかな情緒までも学習し、さらに習得していくのをみながら、学習、習得、という言葉に違和感を感じ始める。「心」って何だろう。彼らは、人間の役に立つようにと人間によって生み出された「機械」にすぎないのだろうか。そうだと言ってしまうことのあまりの後ろめたさ。あるいは、彼らは、魂をもった存在なのだろうか。そうだとしたら、彼らの人権が気になって、やはり、なんともいえない後ろめたさを感じる。
物語の世界は、いつか迎える未来のように感じて、後ろめたい、というだけでは済まなくなりそうだ。


馬が走る前に「よろしくね」とたてがみに手を当てるヒューマノイドの騎手は、実際自分は息ができないのに、この馬と息が合うのを感じる。体に伝わってくる振動から、走る馬の幸せを感じる。
競馬場の経営者である人間たちは、馬を消耗品として扱う。わずか二、三年の間、走れるだけ走らせて(儲けて)、あとは、さっさと新しい馬と取り換えることになんの痛みも感じない。
どちらの「ヒト」を「人間らしい」と呼んだらいいのだろう。


動物と人との関係についても、この世では、動物たちもロボットも、人間に都合よく扱われていることをつくづくと感じてしまう。稀少な生き物を守ろうとすることだって、それが結局のところ人間にとって(人間が生きるこの惑星にとって)都合がよいから、と言われて、反論するのが難しい。
「遠い未来、動物はこの惑星を捨てるかもしれない。ここではもう生きられないと判断した動物の遺伝子が、みずから死を選択するのよ」
それは、もしかしたらもう始まっているのかもしれない。絶滅危惧種の動物たち(の一部だろうかな)は、どんなに人たちが守ろうとしても、繁殖を助けようとしても、なかなかうまくいかないと聞いたことがある。


主人公たちの一人は、小児麻痺のため下半身が不自由で、車椅子の生活をしている。
彼女が不自由なのはなぜなのか。彼女を不自由にしているのは本当は何ものなのか。
たとえば。身内にしても、通りすがりの善意の人たちにしても、空回りして、結局、相手も自分も不幸にしていることがあるのだ。善意が、ときにはたちの悪いものに変わってしまうのはなぜなのだろう。
物語のなかで彼女が不自由していたのは、彼女自身の足ではない、ということが身に沁みる。


個人個人の物語であり、家族の物語だ。
「家族の不幸と向き合うことは、わたしが目を背けてきた自分の不幸と向き合うことでもあるのよ」
そうなるために、これだけの人たち、人ならぬものたちの存在が必要だった。もっといえば、誰かを「しあわせ」にするために、自分にできることがあるかもしれない、と感じられるようになることが始まりだろうか。
幸せな瞬間は、時を超える、という。時だけじゃなかったけど。


読みながら、不自由、自由、不自由、自由……という言葉がリフレインしながら心の内を駆け巡る。
これは幸せの物語。自由になるための物語。
物語を読み終えて、本を閉じるとき、わたしも、解き放たれたと感じる。
風が吹く。空が青い。


少し未来の物語だ。ヒューマノイドという、性能のよいロボットが人々の生活のなかに入り込んで、町のなか、職場、家庭のなか、そして、事故の現場で、これまで人間たちが担ってきたさまざまな労働を、代わりに引き受けるようになっているころ。
競馬場でも、騎手が、しばらく前から軽量のヒューマノイドに変わった。そのおかげで、馬は一層速く走れるようになり、一層速く「廃棄」されるようになる。騎手も。
不思議な騎手だったのだ。走る馬から、自ら進んで落馬するなんて。その理由が、青い空に見とれていたから、だなんて。