『風の向こうへ駆け抜けろ』 古内一絵

風の向こうへ駆け抜けろ (小学館文庫)

風の向こうへ駆け抜けろ (小学館文庫)


その年の、地方競馬教養センターを卒業した騎手たちのトップは、人一倍の努力家で、ただ一人の女性騎手、芦原瑞穂だった。
瑞穂は、鈴田競馬場に新人騎手としてスカウトされるが、彼女を待ち受けていたのは厳しい現実だった。


レースでは、男も女もない。同じ場、同じ条件で競い合う。こんなふうに男女の隔てのない競技、あまりないのではないか。
しかし、現実は清々しくはないのだ。
競馬場は、ずっと男の世界だった。
瑞穂が鈴田競馬場にスカウトされたのは、彼女が優秀だったからではなかった。
誰も彼女が勝つことも、成長することも望んでいなかった。望まれたのは、寂れていく競馬場の集客のために、唯一の女性騎手として話題をふりまく広告塔になることだった。


また、この競馬場を支配するのは大口の馬主であり、競馬場主催者も厩舎も、彼のご機嫌を伺わずには立ちゆかないという現実もある。


「本当は自分だってわかっていた」と瑞穂は考える。
そもそも競馬が馬にとっていかに酷いものであるかということ。競馬の現実が決して生易しいものではないこと。
「競馬は汚い。」


斜陽でどん詰まりの鈴田競馬場の、最もどん詰まりにあるのが「藻屑の漂流先」(使い物にならなくなった人や馬が流れ着く場所)と言われる緑川厩舎。
騎手として瑞穂が所属するのはここ。
調教師緑川光司をはじめ、様々な過去を持つハミダシ者たちの集まりだ。
ここに所属する競走馬フィッシュアイズは、難しい性格と言われ、合わせ馬として使い捨てられかけていたのを、緑川厩舎が譲り受けたのだった。
人も馬もアウトローの集まりだ。
瑞穂が過酷な現実に潰されることがなかったのは、自分も鈴田競馬場のアウトローだったから。
瑞穂の情熱が、周囲のハミダシ者の集まりを頼りになるチームへと変えていく。いや、本来の姿を取り戻させる。
「馬と心中してもいいと思う世話役たちが作る馬が、金と設備とシステムで作られた馬を凌ぐことがあるのではないか」光司の思いが胸に響く。


私は馬を知らない。競馬を知らない。レースのルールも、用語も、本当はわからない。物語の中で説明される基本的な事柄さえも、わかったとは言えない。
でも、瑞穂とフィッシュアイズとが、一体となって飛び出す時、私も彼らと一緒にいた。
体中の筋肉が引き締まるような気がした。両足の内側に熱い鼓動を感じ、背中から強い力が「行け、行け」と押してくるのを感じていた。いつのまにか前のめりになり、拳を握りしめていた。馬と騎手の一体化した巨大な生き物に私もなって、力一杯駆けていた。


風が吹く。
アウトローたちに向かって吹きつける、芳しくない、重たい風。
人と馬をがんじからめにしようとする因習。人の足元を攫おうとする言葉や権力の風。
馬とともに若い騎手が、その風を突き破って駆け抜けていくのを感じる。