『白バラはどこに』  クリストフ・ガラーツ /ロベルト・イーノセンティ

 

「ほんとうは何も変わっていない。そう思えるときもありますが、母はわたしに、トラックが通りすぎてゆくあいだは、用心して道を横切らないといけない、トラックの列は速度をけっして落とそうとはしない、といいます」
少女は、止まろうとしないトラックの間を、用心して、用心して、道を横切っていたのだ。
泥んこの水たまりを「靴を汚したくなかった」から、気を付けて跳び越えていたのだ。


絵本の最初のページの絵は、ハーケンクロイツの旗がひるがえる町角。兵士たちを大勢のせたトラックを人びとが歓呼して見送っているように見える。
だけど、ページを追うごとに、画面の印象は変わってくる。
町はいつでも建物がひしめき、人びとが行き交い、車が走っていく。家々の窓は、ところどころ板が打ち付けられ、道路は、でこぼこで、水が溜まっていく。
人びとの姿も表情も変わってくる。笑顔もあるけれど、ちっとも愉快な顔ではない、と思うのは、見る側の気持ちの問題かな。
美しい絵だけれど、暗くて寒い。


この町に住む一人の少女、名前は白バラ。
あるとき、彼女は、通りにとまったトラックの後ろから一人の少年が飛び降りるのを見る。少年はすぐに捕まってトラックに連れ戻される。
少年の行き先を、白バラは知りたいと思う。トラックが向かった方角に彼女は歩き、町をはずれ、広い野を越えて、今まで踏み込んだことのない森の中に入っていく。
そして……


少女の精一杯の真心が暗い画面のなかで輝き、こちらの凍えた気もちを温めてくれる。暗闇のなかで、良心は灯りのようだ。
だけど、彼女の真心は、この事態をすっかり変えることには繋がらない。危険に晒され、自分の身を削ってまでの仕事であったのに、大きな流れを呼ぶ役には立たないのだ。
彼女はそんなことをしようとはしなかった。たとえていえば、目の前の暗がりに(誰もが見ようとしなかった暗がりに)ひとつひとつ灯りをともすことに懸命だったのだ。


だけど、なんてハラハラさせられるのだろう。
姑息なもの、卑怯なものが、明るいところを大手を振って歩く恐怖の時代に、美しいものは簡単に踏みにじられてしまいそうだった。


何が起こっているのか、なぜこの人はそんなことをするのか、この人たちはどういう人なのか、絵本は、一切の説明をしない。それらを言い表すための単語は存在するはずなのに、一切なし。
だから、読み手は想像する。かかれていることの奥まで、大きな目を開いて見なくちゃ、と思う。


少女の名前の白バラというのは、ナチス時代の学生たちによる非暴力の抵抗運動「白バラ」にちなんでいる。
誰もが黙り込んだ町で、誠意をもって、こんなことは間違っているのだ、と声をあげた若者たちへの畏敬や、彼らを若いまま死なせてしまったことへの無念さから、少女の形をした「白バラ」は生まれたのかもしれない。