『白バラ抵抗運動の記録――処刑される学生たち』 クリスティアン・ペトリ

 

ナチスの恐怖政治のもと、「白バラ」は、ミュンヘンの大学生たちを中心にした非暴力の抵抗運動グループだった。


著者は、膨大な資料や多くの関係者たちの証言をもとに、事実を積み重ね、「白バラ」抵抗運動とは当時のドイツにとって、どういうものだったのか、意義や問題点を検証する。


主力メンバーたちは、それぞればらばらな性格、経歴をもつ若者だが、彼らに共通するのは、信仰の篤い、教養あるドイツ市民階級の出だったことだ。


ナチ主義者と、文化的・人文的な市民階級の間には、一切のコミュニケーションを不可能なものとする大きな溝があったそうだ。(一つのドイツと、もう一つのドイツ、と著者はいう)
ナチ(一つのドイツ)は、生活の「(ナチス的な)政治化」を要求したが、市民(もう一つのドイツ)は自分たちを非政治的なものと理解していた。
彼らは、政治的とは非道徳的であると考えていたが、ナチ側にとっては、非政治的であることは「弱い」という意味であり、「一人前の人間ではない」ことを意味した。


「白バラ」抵抗運動は政治的ではなかった、と著者は書く。
彼らは、ナチ主義者は政治的な現象として現れたとは捉えていなかった。政治的な分析にも興味を持たなかった。
彼らが考えていたのは、「(ナチズムを「悪」と捉え)「悪」への抵抗は、「愛」への「引き返し」である」ということだった。
つまり、彼らはクーデターを起こそうとは思わなかった。彼らは、ドイツ人の眠っている良心に、目を覚ませ、と訴えたのだった。


「『白バラのパンフレット』を政治に経験ある者の目で読めば、彼らの宗教的、倫理的な情熱に心ゆすぶられると同時に、そこに明らかにされている政治的な素朴さに心沈むのを覚える」(フランツ・ヨーゼフ・シェーニング)


「政治的でない」ことは、彼らの弱みだったのかもしれない。だけど、同時に強さでもあった、とは言えないだろうか。


「非合法的な活動は目に見えるものでなくてはならない。そうであってのみ、政治的な意味をもつ」という、活動家エルンスト・ブレンケルの言葉を引く。
「非合法的活動の最も本質的な効果の一つは第三帝国の権力者たちに不安の感情を与えること」だという。
そして、こうもいう。
「目に見える非合法活動から、口づてに伝わる伝説が生まれなければならない」


白バラは次々に逮捕され処刑されたが、それは、挫折だったのだろうか。
大きな運動の「のろし」があがることはなかったが、時間をかけて、地の底を這うように口づての伝説がどこまでも広がっていった。
だけど、何よりも、かけがえのない命が戻ってこないことがあまりにも惜しい。


『白バラは散らず』と『白バラ抵抗運動の記録』を続けて読み、メンバーの高潔な情熱に圧倒されつつ、そうはいっても、ただ英雄譚にしてしまっては、それまでなのだ、と思った。
できるだけ客観的にみて、その思想や行動には、どんな意義があったのか、どんな問題があったのか、知りたいと思った。考えたいと思った。
そういう意味で、この本を読めてよかった。