『愛の重さ』 アガサ・クリスティー

 

少女ローラは両親から充分愛されていないことに気がついていて、両親の愛を欲していた。それだから、生まれたばかりの妹シャーリーがいなければいいと思った。
夜中の火事は、自分が神さまに怖ろしいことを祈ってしまったせいだと思い、無我夢中で炎のなかから赤ちゃんのシャーリーを助け出した。気づけば、彼女の心からは憎しみも、愛されたいという願いも、消えてしまい、ただ妹への深い愛情だけがあった。
シャーリーは成長し、恋愛し、結婚する。結婚生活は楽ではなかった。相手は、ルーズで薄情だった。


一途に相手に尽くす二人の女性の愛情は、ともに献身的で、自己犠牲などものともしない。
だけど、一方は、相手をまるごと外から包み込んでいるよう。
対してもう一方は、相手の真横に並んでいる。
一方の愛情は相手にとって重すぎるが、一方はそうではない。
どういうことかと改めて考えれば、人をちゃんと信頼しているかどうか、ということだろうか。人の人生に敬意を持てるかどうか、ということでもあるかもしれない。


『春にして君を離れ』『娘は娘』そして『愛の重さ』の三作は、クリスティー(メアリ・ウェストマコット)の愛の三部作と呼ばれるそうだ。
三作とも「砂漠」という言葉が登場するが、町の中で暮らす私たちにとっても、砂漠は、案外身近にあるのかもしれない。


「……確かにあまり幸せではなかったのですが、ふしぎなことに、あたくしは自分の生活に満足していましたの。それはあたくしが自分で選んだ道、選んだ生活だったのです」
「幸福になる」ということが人生の目標ではないこと、大団円ではないのだということは、クリスティーの他のいくつかの作品でも感じてきた。
登場人物たち(ことに女たち)は、いわゆるハッピーエンドに背を向けて、「なぜその道を選ぶの、そうする必要はないのではないか」と読者を少々不満にさえさせる、より困難な道に雄々しく向かおうとする。目先の幸福(自分のための単純な利益)よりも大切なものがあるのだ、と。


(私自身のための覚えとして。)ひとつ、納得できない、というか困惑するのは、「償い」という言葉の意味。
先の償いは、償いにならないのに、あとの償い(「苦い真実」)が、償い、と認められるというのが腑に落ちない。もうちょっと考えてみたい。