アン・プレンティスは、結婚生活の早い時期に夫を失い、それ以後、一人娘セアラを大切に慈しんで育ててきた。セアラはもうすぐ19歳。母にとって自慢の娘だ。満足とともに、そこはかとない寂しさも感じている。そんな時に出会ったのが、リチャード・コールドフィールドで、強く惹かれ合う二人は、結婚の約束をする。
ところが、セアラとリチャードは、とことんソリが合わない。激しくいがみ合う二人の間で、アンはどちらの側に立つこともできず、困り果てるばかり。
そして、ついに、婚約者か娘か、どちらかを選ばなければならない嵌めになる。
その結果……。
一つの選択の結果の、母と娘との長い物語が始まるが、もし別の選択をしたら、これは別の物語になったのだろうか。
どちらを選んだとしても、なんとなく、大きな違いはないような気がする。
そもそも、無茶な選択をしなければならなかったのは、アンが、目の前の問題から、逃げてばかりいたせいではないか。
「砂漠の真ん中に何もしないでじっと坐っていると、自分がどんなにいやらしい人間か、見えてくる」
最初のほうに出てきたアンの友人デーム・ローラの説であるが、アンは笑い飛ばしたのだった。
この言葉を受ける言葉が、たくさんのページを挟んだ後にくる。
「人生の悩み事の半分は、自分を本当の自分よりも善良な、立派な人間だと思いこもうとすることからくるのよ」
ああ、既視感。これは、ちょっと前に読んだ『春にして君を離れ』の主人公が、心ならずも体験した出来事そのもの、と思いだす。
そうはいっても、この物語では、登場人物それぞれ、あれほど苦い思いをして、させて、それでも、あと味が悪くないのは、ここが結局どんな「砂漠」でもなかったからではないだろうか。
アンには、どんなときでも彼女を気にかけてくれる人たちがいたこと。それから、これが、母と娘の物語であったこと。
母と娘は振り幅の大きい振り子のようだ。
大きく揺れる振り子なら、たぶん戻りも大きい、と信じたい。