ビーバー族のしるし

ビーバー族のしるしビーバー族のしるし
エリザベス・ジョージ・スピア
こだまともこ 訳
あすなろ書房
★★★★


父さんともうすぐ13歳になるマットは、新しい土地を開拓して、丸太小屋を建て、トウモロコシ畑を作った。
そして、父さんはマットを残して旅立った。マサチューセッツに残してきたかあさんと妹のセアラ、それからもうそろそろ生まれているはずのあかちゃんを迎えに行くために。
マットはトウモロコシ畑の世話と、炉の火の守をしながら一人残ります。父さんは七週間たったら家族を連れて帰ってくるはずだから。

少年ひとりぼっちの森の開拓地の暮らし。
話し相手もいない。さまざまな危険なめにあったりしているうち、二人のインディアンに助けられる。サクニス老人と孫のエイティアン。
サクニス老人はマットに、孫に白人の文字を教えてくれるように頼む。そのかわりに毎日狩の獲物を届けよう、と。
そして、マットとエイティアンとの交流が始まる。白人のマットを敵視するエイティアンとの。
マットは唯一彼が持っていた本「ロビンソン・クルーソー」を教材に使います。

18世紀のアメリカです。
インディアンは白人たちにとって、自分たちよりも劣る野蛮人、でした。マットもそういう価値観の中で育ったはず。だから、マットにとっても、それは改めて言及する必要もないくらいにあまりにも常識的なことだったはずです。
一人ぼっちの生活の中にやってきた同年代の誇り高い少年は、その行いで、マットを戸惑わせます。これはいったいどういうことだろう、と。
ロビンソン・クルーソー(実は私は読んだことがないのです)がいかに白人至上主義の立場で書かれた小説であるか、マットと一緒に知りました。物語のおもしろさを認めつつ。
エイティアンと毎日を過ごすうちに、マットにとっての常識が揺らいできます。
マットが、自分の偏見に少しずつ気がつき始め、行きつ戻りつしながらエイティアンに対する信頼と尊敬が芽生え始める過程が好きです。
マットが昼も夜もたったひとりぼっちだ、ということが、深く考える時間を与えてくれたように思います。

森でのインディアンの生きた知恵の数々は、マットだけではなく、わたしたちにとってもとても興味深いです。
それをマットに教えるエイティアンから、わたしは大好きな「リトル・トリー」(フォレスト・カーター)を思い出しました。チェロキーインディアンの知恵の深さを孫のリトル・トリーに折に触れて教える根気強いおじいさんの姿が蘇ります。

食べる分だけの動物しか獲らないこと、殺したものはかならず役に立てなければならないこと、子どものいる雌は殺さないこと、などなど・・・
忘れられないのは、マットが、自分たちの住む丸太小屋のある土地のことをエイティアンに尋ねるところです。
マットは、白人達がインディアンの土地を奪っているのではないか、と思います。

>「父さんが家を建てたこの土地のことだけど・・・もしかして、おまえのおじいさんのものだったの?前には、おじいさんが持っていたのかな?」
「どうして、ひとりの人間が土地を持ってるんだ?」エイティアンは、きき返す。
「つまりそのぅ、いまはここ、おれの父さんの持ち物なんだ。父さんが買ったからね」
「なにを言っているのか、わからない」エイティアンは、顔をしかめた。「どうして、土地がだれかのものなんだよ? 土地は空気とおんなじだ。その上に住んでいる人、みんなのものじゃないか。ビーバーのものでもあるし、シカのものでもある。シカが土地を持っているっていうのか?」
開拓、という名のもとに自然を切り開き、自分の力の元に屈服させようとしてきた白人たち。自然と一体となって生きようとするエイティアンたちとの考え方の差。
マットはインディアンの知恵と精神の豊かさに触れ、感嘆し、その一部を身に付けていきながらも、自分のアイデンティティは失いません。
自分はインディアンではなく、白人の父と母の子である、ということ。
インディアンの文化すばらしい、と何もかも投げ出して同調する物語ではないように思うのです。
このきっぱりとした意思表示が見事で、感動的です。
エイティアンもマットもこのあたりがぴったりで、お互いの民族のありかたに理解できない部分があったとしても、相手の選択を尊重し、心から尊敬する。また、互いにどの点で尊敬されているかを知っている。それを誇らしく思っている。・・・そういう二人の友情には、崇高ささえ感じます。

ただ、エイティアンたちのこの先のことを思うと辛い未来しか思い描けない・・・
そして、力で自然を駆逐してきたつもりの白人達は、自らの手で今、自分自身をも駆逐し始めています。
マットに残してくれた彼らの知恵が遠い子孫達の中で芽を吹き始めてもよいころかもしれません。
単純に今の私たちはダメだ、というのではなくて、ここまで来た自分たちを受け入れながらの模索ができたらな、と思うのですが。
自分たちの立ち位置をしっかり見据えながらの、自分たちの来し方への振り返りができないものか、と思います。