極北の動物誌

極北の動物誌極北の動物誌
ウィリアム・ブルーイット
岩本正恵 訳
新潮社


巻頭、星野直子さんの「刊行によせて」で引用されていた星野道夫さんの言葉
「・・・生物学の本というより、アラスカの自然を詩のように書き上げた名作・・・」に、大賛成です。
これは詩です。
旅をするトウヒから始まって、アカリス、ハタネズミ、ノウサギ・・・カリブーやムース・・・
アラスカのタイガを舞台に歌い上げた美しくて圧倒的な命の叙事詩です。
この地に暮らす動物たちが一種ずつ舞台にあがります。
彼らは厳しい自然の中で、体中に蓄えた知恵を総動員して必死に生き、死んでいく。その死は、ほかのものの生につながっていく。
生命のサイクルは残酷で・・・しかし美しい。


たとえば。
月光の照り映える原野を渡っていくオオヤマネコの一家の目の前に真っ白なノウサギが一匹、また一匹と現れて跳ねる。
「あたり一面が、突然、月光を浴びて跳ねまわる白い物体に埋め尽くされた」という。
やがて、このオオヤマネコの一家は次々にこのノウサギをしとめていくのだけれど。
この場面は、自然界の中の複雑な行動メカニズムが積み重なって起こるものだ、というけれど、
不思議な幻想的な景色、まるでお伽噺のような景色が、実際に自然界の中に起こっているのだ、必然なのだ、ということに恍惚となってしまう。
人間の預かり知らない遠い最果ての原野の命のサイクルの詩。残酷で神聖な詩。


また、オオカミの家族、父親が満足して「吠える」声に呼応し、他のオオカミたちが声をあわせて歌い始める。
「これを「吠える」というのは貧しい表現だ」と著者は言います。
「我々の言語では、なわばりを守るオスのルリツグミの好戦的なさえずりは「歌う」と表現するのに、オオカミが幸福感を表す声には「吠える」という表現しか使わないのである」
さえぎるもののない原野で合唱するオオカミたちの喜びの歌が聞こえてくるような気がする・・・
人も動物も、幸福なとき、ともに声合わせて歌いたくなるのかもしれない。
これも、ぞくぞくするような喜びがおなかからわきあがってくるいような美しい場面です。


この地で狩猟するヒトもまた、生命のサイクルに組み込まれていた、かつて。
自らを「ムースの民」と呼ぶアサバスカ族の人々は、けれども、白人の文化と混ざり合い、伝統的な狩りの手法や掟を捨て、
今は、この地から浮いてしまった。
「文化的変容」というそうです。
このため、アラスカの大地をスラムに変え、自分たちも今まで持っていたものを見失い、
持つ必要がなかったものを求めて不幸になっている、というのは・・・わかるような気がするけど、ショックでした。
そして、変わってしまえば、もはや、昔の生活には戻ることはできないのですよね。
たくさんの課題が提示されています。土地にも人にも。


原野が失われつつあることは、地球全体の不幸。
自分たちが何を持っているのか、何を失いかけているのか、知らなければ、防ぎようがないと思います。

>この生と死のドラマ、食料を探して殺して食べるドラマには終わりがない。めぐりゆく季節とともに果てしなくつづく。このドラマにはすべての生きものが数場面ずつ登場する――ヤチネズミ、イタチ、カケス、カリブー、インディアン、白人――そして来る冬も来る冬も、永遠の雪はトウヒのあいだをささやくように舞い落ちる。
生きもののサイクルの中にわたしたち人間も入っているのですよね。いなくなっていいものなどない。
それぞれに重大な役割を果たしている生きものの世界。
そのなかで、人間の果たすべき役割は、破滅をもたらす者ではないはずですよね。