『オオカミの知恵と愛 ソーントゥース・パックと暮らしたかけがえのない日々』 ジム&ジェイミー・ダッチャー

 

野生動物のドキュメンタリー映画を撮り続けてきた著者たちは、1990年代、嘗てのオオカミ生育域にオオカミを復活させようという連邦政府の計画に便乗する。
林野局の所有地であるアイダホ州ソートゥース山地10万平方メートルを借り受け、オオカミの一群れ(ソーントゥース・パック)を導入し、六年間にわたって観察し続けた。
ウルフプロジェクトである。
ソーントゥースパックのオオカミたちは、野生ではない。保護施設から引き取ったオオカミたちで、既に人間がそばにいることに慣れていた。
(自然な姿を撮影するために)オオカミたちには、そばに人間がいることに違和感を感じさせないように、あるいは必要以上に興味をもたせないように、観察・撮影のベースキャンプをオオカミたちのテリトリーのど真ん中に設置するが、オオカミたちを人間が飼いならすようなこと(必要以上の接触)は避けた。


オオカミの暮らしをみつめればみつめるほどに、彼らの情緒的な繋がりに驚かされる。
群れのなかの一頭が、保護地の外から侵入したピューマに殺されたときは、残ったオオカミたちは何か月もの間、悲しみに沈んだ。
子オオカミたちはパック全員で面倒をみ、大切に育てられる。
身体が弱ってきた高齢オオカミが大切にされる。若い時のように身体の自由がきかなくなっても、彼は長年の経験と知恵の宝庫なのだ。(老オオカミを失うことを、人間たちの社会で図書館が消失することに喩えていて、とても興味深かった)
オオカミたちは遊び好きで、独特の「遊ぼう」の合図のもと、すぐに遊びに入る。


オオカミのパック(群れ)は、愛情で結ばれた家族なのだ。と同時に順位付けがしっかりした厳しい階層社会でもある。
リーダーの地位は絶対で、毎日の集会に集まってくるパックのオオカミたちは、それぞれ、リーダーへの挨拶を忘れない。
食事も、階層による順番があり、最下位のオオカミは空腹を抱えて最後まで待たなければならない。


パックは11頭。性格や個性は11頭11色。
この本のオオカミたちに夢中になってしまうのは、彼らの個性のせいだ。おおらかなのもいれば繊細なのもいる。ちょいと陰険なのもいるし、おっとりしたのもいる。友情に篤いのも、おどけ者もいる。
擬人化されているわけではないのに、行動の様子を眺めれば、私たち人間の集まりになんてよく似ているか。
だから、オオカミに惹かれるのだろうか。
違いは、私たち人間が嘘をつくということか。それもオオカミに惹かれる(憧れる)理由かもしれない。


私たち人間が、オオカミを悪者にするのは、神格化と同じくらい極端だ。
オオカミをことさらに憎悪、迫害してきたのは、人間の側に理由がある。
「人間はオオカミに自分の姿を映しだし、それを憎んでいるのだ」という言葉が心に残った。


オオカミたちのほうから人を襲うことはまずない。それなのに、どこの保護地のオオカミたちも、一歩保護地を出れば、人間たちに目の敵にされる。保護地を囲むように仕掛けられた罠と猟銃が待ち構えているのだという。
著者たちが、オオカミの真の姿を撮影したい、知らせたい、と考えたのは、それだからなのだ。


オオカミの寿命は十年未満だそうだ。
この本のなかで伸びやかに暮らしていたオオカミたちも、一頭ずつ消えて、パック自体も消えてしまう。
寂しい。著者たちの目を通して、私もパックのオオカミたち一頭一頭が大好きになっていたから。