『春にして君を離れ』 アガサ・クリスティー

 

ジョーンは、愛する夫とともに幸福な家庭を作り、三人の子どもを育て上げた。友人に親切だったし、地域の奉仕活動も率先して行ってきた。
これまでの自分の暮らしに満足し、築きあげてきたものに自信をもっていた。
だけど、本当にそうだったのか。


旅の帰途、思わぬところで足止めを食う。
見渡す限りの砂漠のなか、無味乾燥な宿泊所の客は自分一人だけ。
小さな手仕事もなければ、読むものもなし。
こういう状況で、何日も、いつ来るかわからない列車を待っている。
時間だけはたっぷりとある。


きっかけは、別れたばかりの旧友が残した言葉の端っこを思い出したこと。あれはどういう意味だったのだろう。
そこから、自分のこれまでの暮らしのあの場面この場面が蘇ってくる。その時には気にも留めなかったいくつもの小さな違和感も。
蓋をして、見なかったことにしていたことや、その理由も。
あまり愉快ではない連想が、茫漠とした風景の中で加速し、止まらなくなってくる。


夫は私を愛していた?
子どもたちは私を慕っていた?
私は使用人たちのよい主人だった?
友人たちに慕われていた?


これは恐ろしい物語である。
自分は、自分が思っていたような人間ではなかったかもしれない。
そもそも自分は誰かをほんとうに愛したことがあったのか。愛していたのはただ、自分自身だけだったのではなかったか。
気づいていなかったのは自分だけだった。
いやいや、ほんとうは気がついていた。でも自分で自分を騙して暮らしてきた。
次々に、思い出のなかの輝かしい場面が、ひっくり返っていく。
手の中に大切に持っていたはずのものが、どんどん零れ落ちていく。からっぽになるまで。
その過程が恐ろしいのは、愚かなジョーンが私の中にもいる、と感じるからだ。
小出しに現れる真相を、穴から顔をのぞかせる「トカゲ」に彼女は喩えるが、わたしにもトカゲの影が見えるような気がする。
これが真実、と信じていたもの、あれもこれも蜃気楼だった?


彼女の細切れの回想につきあうのは、怖ろしかった。
だけど、本当の本当に怖いのは、そこではなかった。
狂気を孕んだ砂漠は、物語の中に置いてきたはずだ。
私は、本を閉じて、ほっと息をつけばいいんだ。
ほんとうにそうなのだろうか。
ほっと息をつくことは……ジョーンが(たぶん)していたはず。と思い当たる。